<店主前曰>
カナユニの料理のなかで派手でいちばん人気のメニューはクレープシュゼットだろう。客の前で作られるパフォーマンスつきのクレープシュゼットほど、絢爛豪華なデザートはほかにない。プレートに垂らしたブランディが空中に燃え上がる瞬間は、まさに今夜カナユニにやってきた男女が恋人同士になれるかどうかが決まる最後の瞬間である。毎晩、横田誠はホールで男と女のお客さまのこころに炎が燃え移ってくれることを祈りながら、クレープシュゼットを焼いている。10年前、はじめてやったときは手がガタガタ震えたものだが、いまでは笑顔を絶やさず余裕を持って作っている。人生は何事も経験の数から自信が生まれるのである。
シマジ 若いときは多くの女とクレープシュゼットを食べたが、カナユニのクレープシュゼットは男が食べても美味いよね。
計良 食べてみていいですか。
シマジ どうぞ、どうぞ、といってはいけないんだっけ。
立木 そうだよ。シマジ、セオはまだか。
シマジ この連載はセオはまったく関係ないですよ。困ったことに、タッチャンの「セオはまだか」は口癖になってしまったんだ。そういえばセオはこの間キャノンの本社で開かれた立木義浩写真展に2日も連続で行ったらしいですよ。
立木 2日連続とはありがたいことだ。セオもやっとおれの写真がわかってきたかな。
シマジ それが、オープニングの日をまちがえて前日に行き、会場が真っ暗だったのでどうしたんでしょうとおれに電話があったんだよ。
立木 慌て者のセオらしいじゃないか。
シマジ それで正式オープンの日もやってきたんだ。
横田 セオさんって律儀な方なんですね。
シマジ 律儀なんてものじゃない。ガサツそのものだ。でもタッチャンとおれが可愛がっている。何か憎めない男なんだ。
横田 思い出しました。セオさんはイラクに行かれた編集者ですよね。
シマジ そうだよ。命からがら帰ってこられた強運の持ち主だ。あいつは愛妻家を絵に描いたような男だから、今度の結婚記念日は、カナユニで祝えといっておくから、誠、クレープシュゼットをお前が作ってやってくれ。クレープシュゼット代はおれが払う。
立木 シマジ、そんなケチなことをいわないで全額払ってやんな。
シマジ でもセオも男だ。女房だといって別な女を連れてくるかもしれないよな。
立木 それはないよ。編集の業界であいつ以上の愛妻家をおれはみたことも聞いたこともない。
シマジ じゃあ、セオが本当に愛妻を連れてきたかどうか、健康保健証か運転免許証を提示してもらおうか。誠がそれをみたら全額おれの支払いにしようじゃないの。
立木 シマジ、おれも女房を連れてきたらクレープシュゼットつきで全額おごってくれるか。
シマジ そうはいかないよ。もともとクレープシュゼットはエドワード7世が恋人シュゼットのために作らせたデザートなんだ。愛妻にはもったいない。
もっとロマンティックなカップルでないとクレープシュゼットが泣きます。
立木 本当か。シマジは物語を作る傾向が強いから、お前の創作じゃないのか。
横田 そうですか。クレープシュゼットにはそんなエピソードがあったんですか。今夜からお客さまに披露いたします。
計良 これは男でもイケますね。ごめんなさい。全部食べてしまいました。
シマジ いいんだ、いいんだ。それでは計良さん、カナユニのリモンチェッロを食後酒に飲んでください。これはバーマン武居の傑作です。
武居 いまから30年前にローマから帰ってきたシマジさんにこんなものを作れといわれて、試行錯誤してやっとここまで出来たものです。
計良 美味い!このとろみがまた何ともいえませんね。
武居 この間、イタリア人がきたので飲ませたら、「マンマが作るリモンチェッロよりカナユニのほうが美味い。これをマンマに飲ませてあげたい」というんで、ソーダが空いた瓶に詰めて持たせてあげました。
シマジ そういう気が利くところがカナユニらしくていいね。そうだ。武居、2年前の3.11の夜の話をしてくれないか。
横田 それはぼくが話していいですか。
シマジ いいとも。
横田 3.11の夜、満席の予約が入っていたんですが、電話も通じず、お客さまが誰もこなかったんです。従業員一同は何とか全員駆けつけて、店はオープンしたのですが、誰もいらっしゃらない。一同暗い気持ちになっていると、8時過ぎ男性のお客さまがひとりで入ってきたんです。よかった、うれしいと思いました。その方は自転車で越谷からやってきたそうです。するとしばらくして女性の方が現れたんです。1ヶ月前から予約をしてカナユニでふたりだけの宴を愉しもうと計画していたそうです。電話も通じず困ったことでしょうが、ふたりのカップルはたがいにくるだろうと確信して、ひとりは徒歩でもうひとりは自転車でやってきたんです。女性の方は両国から歩いてきたといっていましたね。
立木 愛は何よりも強いんだね。そんな純粋な恋を死ぬまでに一度してみたいね。
シマジ それは無理だね。タッチャンもおれも手垢がいっぱいついている。純粋だなんていったら神さまに罰せられるよ。
立木 セオはまだか。
シマジ 永遠にセオはきませんよ。タッチャンの写真展に2度も足を運んだんですから、勘弁してやってくださいよ。
計良 3.11の夜にそんないい話があったんですか。
シマジ そのふたりは大歓待されただろうね。
横田 その夜のお客さまはそのおふたりだけだったので貸し切りのサービスをさせていただきました。
立木 その夜そのあとふたりはどうしたんだろうね。ホテルだっていっぱいだし。
シマジ 余計な勘ぐりはしないでください。純粋な恋は夜通し当てもなく歩いているものです。
立木 シマジが純粋な恋を知ってる風にいうのはやめてくれ。
シマジ 武居、末期の水にお前の作ったマティーニを飲んだ素敵なあのおばあちゃまの話をしてくれないか。
武居 ここ10年来、ちょくちょくいらっしゃるお洒落な85歳のおばあちゃまがいましてね。いつも息子さんとその奥さんとこのカウンターに一緒に座って、わたしの作るマティーニ・オン・ザ・ロックスを一杯時間をかけて「美味しいわ」と飲んでくれていたんです。最近おばあちゃまもご家族もいらっしゃらないなあと思っていたら、息子夫婦だけでいらっしゃったのです。聞けば、おばあちゃまは近所の病院で虫の息だそうで、ここ2,3日保てばいいかという話でした。咄嗟にわたしが思いついてクラッシュ・アイスでいつものマティーニを作り、お帰りになるときふたりに渡したんです。
あとで聞いたお話によれば、脱脂綿に浸したマティーニをおばあちゃんの口元を近づけると、目をパッチリ開けて無言で啜ってくれたそうです。後日「うちのおばあちゃまの末期の水はあなたの作ってくれたマティーニだったのよ」といわれたときには、わたしは思わず目頭が熱くなりました。
立木 武居、それは泣ける話だ。おれも年甲斐もなく目頭が熱くなってきた。
シマジ 何度聞いてもこの話はカナユニの最高の物語だね。
武居 そのご夫婦はシマジさんの大のファンですよ。
立木 それを聞いたとたん、涙が止まってしまった。
横田 どうしてですか。ここにはシマジファンがたくさんきますよ。親子3代で通ってくる方もシマジファンだし、女性同士でいらして「シマジさんの食べるものをください」という方だってしょっちゅういますよ。
立木 おれ、だんだん気持ちが悪くなってきた。武居、マティーニ・オン・ザ・ロックスを一杯作ってくれ。セオはまだか。
セオ 遅くなってスミマセンでした。ネスプレッソのレトレ社長と打ち合わせが長引いてしまって遅れてしまいました。あれ、こちらは資生堂のみなさんですよね。ぼく、日にちをまちがえたかな。
立木 セオ、よくきてくれた。一緒に飲んでくれ。ここはシマジの魔窟みたいなヘンな店なんだ。
シマジ えい、面倒だ。計良宏文さんを相手にネスプレッソ・ブレーク・タイムの対談をやっちゃおうか。
セオ ここにはネスプレッソ・マシンがないから、それは無理です。
シマジ あっ、そうか。