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第3回 南麻布 山田チカラ 山田チカラ氏 第2章 若いうちは無謀なくらいが丁度いい。

撮影:立木義浩

<店主前曰>

山田チカラは静岡に生まれて静岡聖光学院に学んだ。開成、麻布と並び東大入学率の高い聖光は、横浜聖光学院のほうである。
しかし、静岡聖光学院からも異色の人物が輩出されている。いまやコーヒーハンターの異名を持つ川島良彰は山田チカラの先輩に当たる。川島の美味しいコーヒーはJALに認められ、いま大空を飛んでいる。その川島の紹介で、山田チカラの料理もまたJALのビジネスクラスに乗ることになったのだ。
 もう1人、静岡聖光学院出身の異色の御仁がいる。「富士宮焼きそば」を有名にしたB級グルメグランプリの考案者、渡邉孝秀である。万年筆コレクターとしても名を馳せる人物だ。先輩の渡邉に呼ばれたとき、山田チカラは富士宮焼きそばを地元のおばちゃんたちと一緒に喜んで焼いたそうである。静岡聖光学院は、先輩後輩の仲がよく結束の堅い高校なのだ。

シマジ:川島も渡邉もわたしはよく知っている間柄ですが、2人ともじつに男気があるナイスガイですよね。

山田:そうです。2人はわたしにとって誇れる先輩たちです。

シマジ:山田さんは静岡聖光学院を卒業してからどうしたんですか。

山田:とにかくわたしは静岡から飛び出したかったですね。

シマジ:青春時代を田舎で過ごした若者はみんな、その町から出たくてしょうがなくなるものです。いまわれわれの写真を撮ってくれているタッチャンだって、徳島から飛び出して東京に出てきたんですよ。そういうわたしも18歳で一関から上京しました。山田さんの場合はどこに飛び出したんですか。

山田:まず熱海の大月ホテルのなかにあるフレンチレストラン「ラルーヌ」に料理人の見習いとして働きはじめました。そこのシェフの斉藤元志郎さんに出会ったことがわたしにとって運命的だったんです。

シマジ:そういうことはたしかにありますよね。同じ職場のなかで自分の人生に大きな影響を与えられるような先輩と出会うことは大事です。

山田:そうなんです。後年斉藤さんは「旬香亭」というフランス料理のレストランを赤坂に出し、オーナーシェフになられるんですが、わたしが18歳で出会ったころからすでに大人物でしたね。わたしのことを可愛がってくださって、太っ腹にも知り合いのレストランにわたしを修行に出してくれたりもしたんです。たとえば恵比寿の有名なイタリアン・レストラン「イル・ボッカローネ」で修行をしたことがありました。「山田、いいか、いいところを盗んでこいよ」と言って出してくれたんです。それが大変勉強になりました。

シマジ:「イル・ボッカローネ」ですか。当時の本格イタリアン・レストランでしたね。

山田:ちょうどバブルの絶頂期で、有名人や女優やモデルが沢山来ていましたね。

シマジ:山田さんは後輩の面倒見がいい先輩に幸運にも出会ったんですね。開高さんは美味しい料理に出会うことは、新しい天体に遭遇することだと言っていましたが、たしかに山田さんがほかのレストランで働くことは料理人としての新しい天体の発見になったんでしょうね。いまや創作料理の高みにまで到達した「山田チカラ」の第一歩を踏んだのが、その頃だったんでしょう。

山田:ありがとうございます。この世界に入って新米が料理長と会話が出来るようになるのは大変なことなんですよ。

立木:どの世界も才能がものを言うんじゃないの。この子は才能があると思われたらチャンス到来だけど、サラリーマンでも上司に才能を認めてもらうまでが大変だし、職人の世界も一緒だろうね。

シマジ:どんな人間でも社会に出て一人前になるというのは大変なことですよね。六角さんはどうして資生堂に入ったんですか。

六角:わたしの場合は母の影響ですね。母が資生堂の化粧品をずっと愛用していたのです。母は専業主婦だったんですがお洒落な人で、当時としては珍しく毎日きちんと化粧をして、髪もセットしていました。化粧をするのは授業参観日とか先生の家庭訪問とか特別な日だけで、普段は化粧をしないお母さん方が多い時代にもかかわらず、母が素顔でいる姿を私は見たことがありませんでした。

シマジ:ハイカラなお母さまだったんですね。じゃあ、六角さんが資生堂に入社が決まったときは大喜びだったでしょうね。

六角:まるで自分が資生堂に入ったように喜んでくれました。うちでは祖母も資生堂の化粧品を使っていました。

シマジ:ではあなたを入れて三代続けて資生堂愛好者なんですか。

六角:そういうことになりますね。

立木:どんな人間でも母親の影響って大きいものだよね。

シマジ:タッチャンのお母さまには一度お会いしたことがありましたが、素敵な方でしたよ。NHK朝ドラの「なっちゃんの写真館」のモデルでもあり、一世を風靡した女性です。

立木:そんな古い話は出さなくてもいいの。

シマジ:山田さんのお母さまの思い出はなんですか。

山田:うちの母は読書家でしたね。いつも本を読んでいました。

シマジ:それはまた珍しいお母さまですね。

山田:母はわたしが高校卒業直後に亡くなったんですが、天国でも好きなだけ読めるようにと、お棺に沢山の愛読書を入れてあげました。

六角:わたしの母も2011年に他界したのですが、天国へ送るときは母が愛用していた口紅をさし、きれいにメーキャップをしました。

立木:シマジの母親の話はどうなんだ。

シマジ:オクフロは57歳でガンで他界しましたが、亡くなった日がわたしの誕生日でした。「この日ならカツヒコは絶対忘れない」と思ったんでしょうか。だからわたしは誕生日の4月7日は嬉しさと悲しさを同時に味わっているんです。

立木:それじゃここにいる4人は全員母親を亡くしているんだね。シマジ、少し空気が湿っぽくなってきた。話題を変えようじゃないの。

シマジ:そうしましょう。山田さん、面白い話はありませんか。

山田:そうですね、それではスペインでわたしがモデルをした話をしましょうか。

シマジ:たしかに山田さんはイケメンシェフだけど、どうしてまたスペインでモデルをすることになったんですか。

山田:話すと長くなりますが、私がお世話になったイタリアンのシェフが神戸にレストランを出そうとしたとき、阪神・淡路大震災が起こって計画が頓挫したんです。それで、こうなったら思い切って海外で修行してみようかと考えたんです。スペイン料理を勉強したいという気持ちもあったので、そうだ、スペインのバルセロナに行ってみようと無謀にも思い立ったんです。

立木:若いうちは無謀なくらいでないと、その若者の将来はないよね。

山田:最初のスペインへの挑戦は観光ビザで行きましたから、どこのレストランでも雇ってもらえず、途方に暮れているうちにビザの期限が切れそうになってしまいました。そこでひとまずモロッコに出てスタンプを押してもらい、またバルセロナに戻ろうと考えたんです。夕方寂しい思いをしながら、一人バス停でモロッコ行きのバスを待っていたときのことです。老年のカメラマンがマジマジとわたしの顔や姿を見ながら、「きみ、モデルをやらないか」といきなり言ってきたんです。「いまからビザの書き換えにモロッコまで行くんで、帰ってきたらその話をもう一度聞かせてください」と言って、後日モロッコから再びバルセロナに入国して、おそわった通りにカメラマンの事務所を訪ねたんです。

立木:そのカメラマンはホモではなかったの。

山田:鋭いですね。あとで知ったんですが彼はゲイでした。わたしにまったくその気がないので何事もなかったんですが、そのカメラマンこそわたしの救世主でした。

六角:どんなモデルをされたのですか。

山田:ちゃんとしたコマーシャルのモデルでしたよ。たとえばサンミゲールとか、コカコーラのモデルもやりました。言葉もそのころから薄皮を剥がすように少しずつわかっていきました。時間があるときは無給でスペイン料理店で働きました。

立木:人生は、よくシマジが言うように、まさに運と縁だね。

山田:そうです。もしそのカメラマンにモデルとして見出されていなかったら、わたしはとっくに尻尾を巻いて日本に逃げ帰ってきたでしょうからね。日本で貯めたお金もそろそろ底をついていましたから。

新刊情報

Salon de SHIMAJI バーカウンターは人生の勉強机である
(ペンブックス)
著: 島地勝彦
出版:阪急コミュニケーションズ
価格:2,000円(税抜)

今回登場したお店

山田チカラ
東京都港区南麻布1-15-2 1F
Tel: 03-5942-5817
>公式サイトはこちら (外部サイト)

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