撮影:立木義浩
<店主前曰>
小原ピッツァ職人の話によると、ピッツァの命は生地にあるという。ピッツァはうどんや蕎麦のように、飲み込む感覚、いわゆる喉越しの感覚が重要であるらしい。それは焼く前の生地の仕上がりにかかっている。絶妙の弾力を持つ最高の生地のために、小原は休日にも管理を怠らない。小原の生地はまさに生き物である。
今西:このポルチーニのピッツァは最高です。ほかの日本のキノコとも合いますね。
小原:日本のキノコは4種類入っています。このピッツァはポルチーニ・レジーナと呼んでいるんですが、レジーナとは女王さまの意味です。
シマジ:イタリアのポルチーニはフランスではセップというんだよね。
小原:そうです。まったく同じものですね。
立木:1日に何枚くらいのピッツァを焼いているの?
小原:そうですね、そのときのお客さまの入りにも関係しますが、少ないときでも100枚以上は焼きますね。多いときには300枚以上焼くことがあります。
シマジ:1枚1枚小原シェフみずから焼いているんでしょう。
小原:生地の仕込みから焼き上がるまですべてわたしが1人でやっています。
今西:ここにはどれくらいのピッツァの種類があるんですか。
小原:全部で9種類あります。そのすべてのピッツァを全身全霊を込めて焼いているつもりです。
シマジ:手焼きせんべいとはちがうんだね。
小原:手焼きせんべいのことはわかりませんが。
立木:手焼きせんべいだって、焼く人は全身全霊で焼いているんじゃないの。
シマジ:その釜は迫力がありますね。
小原:表面は鉄にみえますが、内部にはレンガが積まれているんです。これは五右衛門風呂職人の、それも名人級の方にお願いして作ってもらったものです。レンガを鉄で囲うとより保温効果が上がるんです。ピッツァを焼く温度は500度ですが、それだけの熱を薪を焚いて出しているんです。ですからわたしは冬でもTシャツ1枚です。夏場、この釜付近の気温は40度近くになりますが、ともかく一年中この釜を抱くようにして仕事をしています。反対に冬の時期でも30度以上はありますので寒さ知らずですが。
シマジ:なるほど、レンガと鉄を組み合わせることによって、熱効率を上げているんですね。
小原:その通りです。店を閉めて火を落として翌日来ても、まだ300度の温度が保たれています。
立木:さっきから見ていると、一枚ずつしか釜に入れていないよね。
小原:はい、どんなに忙しくてもわたしは1枚ずつ焼くようにしています。
シマジ:それは、沢山一緒に焼くと釜の温度が下がってしまうからですか。
小原:それもありますが、1枚1枚こころを込めて全身で焼くようにこころがけているんです。そのほうがクオリティー重視になると思っています。
シマジ:小原シェフはいつごろからピッツァ職人を目指そうと思ったんですか。
小原:多摩美大に通っていた学生のころ、日本縦断の旅をしていたんですが、沖縄の民宿でレンガを積んでピッツァ釜もどきを作り、ピッツァを焼いてみんなに振る舞ったら大好評でした。その民宿に行くたびに「ピッツァの人」と言われるようになってしまったくらいです。
シマジ:大学を出てからはどうしたんですか。
小原:建築の仕事に就いて内装などをやっていましたが、どうしても凝り性なところが出てしまい、「そこまでやらなくてもいいんだぞ」と現場監督から言われたりしているうちに、こころはピッツァのほうに傾いていき、気がついたらピッツァ屋で働いていました。
シマジ:やっぱり職業というのは自分が命がけで惚れこめるものでないと満足しないんだろうね。あなたのいまの幸せそうな顔を見るとそれがよくわかります。ところで今西さんはどうして資生堂を一生の職場として選んだんですか。
今西:わたしは高校生のころから資生堂で働きたいと思っていました。
シマジ:高校生のときからというと、どういうことですか。
今西:わたしの曾祖母も祖母も母も資生堂が大好きで使っていましたし、「花椿」(資生堂の企業文化誌)の70年まえのものが家に大事に保管されているほどだったんです。うちの家族が代々ファンになっている商品を出している会社って凄いなぁと思ったのが資生堂入社を目指すきっかけでした。
シマジ:今西さんはどちらのご出身なんですか。
今西:愛媛県松山市です。
シマジ:えっ、松山ですか。懐かしいですね。わたしは集英社に入社後、25、6歳のころから松山に50回は行きましたよ。
今西:えっ、どうしてですか。
シマジ:松山には坪内寿夫翁という怪物がいましてね、眠狂四郎の生みの親である柴田錬三郎先生と個人的に親交が深かったことから、わたしも柴田先生にお供してよく奥道後に遊びに行きました。
今西:坪内さんってどういうお方なんですか。
シマジ:あなたはいまおいくつですか。
今西:27歳です。
立木:27歳じゃ坪内さんのことはわからないよね。
シマジ:そうかな。詳しく知りたかったら、わたしの『異端力のススメ』(光文社文庫)を読んでください。
今西:わかりました。そんなに偉い方が松山にいらしたんですね。
シマジ:松山は気候も穏やかで風光明媚なところですが、瀬戸内海に面していて魚がまた美味いですよね。
立木:おれもシマジに連れられて何度か松山に行ったけど、いいところだね。
シマジ:第一、松山の人はおっとりしていて、しかも愛想がいいと言われています。
今西:どうしてですか。
シマジ:これは柴田先生の受け売りですけど、江戸時代、徳川家直系の松山藩はいちばん南にあったので、松山藩の民がみんな幸せに暮らしているという見本として、徳川家は裏からかなり経済的に援助していたようですね。
立木:シマジもやっと大人になったね。むかしならいかにも自分の知識のようにひけらかしていただろうに、シバレン先生に聞いたとちゃんと正直に言うようになったんだ。
小原:わたしも学生時代に道後温泉に行ったことがありますよ。たしかにみなさん親切でした。
シマジ:それにしても資生堂に入るって難しかったでしょう。大学はどちらですか。
今西:早稲田です。もう1つ、資生堂に入りたいと思ったきっかけは、大学時代にNPO法人でフェイシャルセラピーという活動に取り組んでいたことです。老人ホームに入居されている方や、お顔に怪我を負った方にメークをさせていただくボランティアをしていました。メークすると不思議にみなさんが笑顔になってくださったんです。
シマジ:そういうご経験があったということは、面接のときにかなりの得点を稼いだんではないですか。
今西:当時の資生堂入社試験のエントリー者数は1万人以上でした。そのうち内定をもらえるのはわずか100人です。資生堂に入りたい気持ちは人一倍ありましたけど、正直入れるとは思ってもいませんでした。神にもすがる思いで松山の実家から70年前の「花椿」を送ってもらい、それを持参して最終面接に挑んだんです。
立木:お嬢はやるねえ。
シマジ:それが内定の決め手になったんでしょうね。
今西:内定後、採用担当の方から採用の決め手を聞く機会があったのですが、面接会場で70年前の「花椿」を見せながら熱く語るわたしの思いが伝わったとおしゃっていただきました。
立木:ピッツァも資生堂も熱き想いが必要だね。
シマジ:70年前の「花椿」を最終面接に持ち込んだ今西さんの機転がいいですね。人生はときに機転が重要なんでしょうね。