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第12回 六本木 Restaurant Ryuzu 飯塚隆太氏 第2章 舌と腕を鍛え抜いた若きフランス修行時代。

撮影:立木義浩

<店主前曰>

シマジ:飯塚シェフは生まれはどちらなんですか。

飯塚:新潟県の十日町で生まれて高校を卒業するまでそこで育ちました。

シマジ:料理学校は?

飯塚:大阪の辻学園に1年間通いました。神戸の「ニュー東京元町店」でアルバイトをしながら通いました。でも学費は親に出してもらっていました。甲子園にニュー東京の寮がありましたのでそこに入りました。

シマジ:それで卒業してどちらに見習いとして働いたのですか。

飯塚:浦安の第一ホテルベイの洋食部の見習いを3年半くらいやりました。そのころ見習い料理コンクールに出て優勝したんですが、後に私もその大会の審査員になり、そこではじめて帝国ホテルの田中総料理長の謦咳に接したわけです。

シマジ:修業時代の料理人はいろんなお店で働いて腕を磨くようですが、飯塚シェフもそうだったんですか。

飯塚:そうですね。第一ホテルのあとは幕張のホテルマンハッタンで約1年、次に青山のロアラブッシュで半年、それから横浜ロイヤルパークホテルで1年お世話になりました。

シマジ:いままでの料理人人生で、大きな影響を受けたのはどんなことでしょうか。

飯塚:それは23歳の時に、仲のいい先輩料理人と2人でフランス全土を旅したことでしょうか。それまで貯めた金を120万ほど持って、パリの「タイユバン」をはじめ、フランス中南部の「ミシェル・ブラス」、モナコの「ルイ・キャーンズ」のような三つ星レストランをたくさん食べ歩きしたんです。やはり一流の料理人の作った料理をじかに食べなければ、料理の奥義はなかなか学べないものですね。

シマジ:なるほどね。「アラン・デュカスのルイ・キャーンズ」はカトラリーも凝っていて、たしか銀器ではなくすべて金器でしたよね。

飯塚:そうですね。いずれわたしは自分のレストランを持とうと夢見ていましたから、行った店の雰囲気もしっかり記憶に留めました。

シマジ:飯塚シェフはフランスではどちらで修行されたことがあるんですか。

飯塚:28歳のころフランスへ渡りました。そして三ツ星レストランの「トロワグロ」で半年ほど働いたり、アルボワ地方の二ツ星レストランでも働いたりしたんですが、30歳になるころ日本に帰ってきました。アルボワ地方というのは、冬にはマイナス20度にもなるところなんです。もうあの寒い冬は越したくないというのが最大の理由でしたね。でもおかげさまでフランスの文化とフランス料理の技術はしっかり学べました。

シマジ:その地方にジュラというところがあったでしょう。そこは昔からメガネの産地で有名なんです。

飯塚:はい、存知上げております。日本の鯖江みたいなところですよね。

シマジ:帰国した飯塚シェフはいよいよ恵比寿の「タイユバン・ロブション」に雇われるわけですね。

飯塚:フランスに料理の修業に行く前にも「タイユバン・ロブション」にはお世話になっていたんですが、その当時毎日が満席の状態だったもので過労がたたり、調理場で倒れて病院に担ぎ込まれた、なんてことがありました。

シマジ:それは大変でしたね。

飯塚:フランスから帰国した翌年、31歳のときにつき合っていた彼女と結婚したんです。フランスにいた当時は手紙のやり取りを頻繁にしたものです。

シマジ:ラブレターを書くっていいことですよ。スマホ全盛の現代では、ペンと紙で恋文をしたためるなんて高尚な行為になってしまいましたがね。

飯塚:そうそう、それから2年半したころ、フランス料理のコンクールがありまして、最初の応募者300人が100人に絞られ、そして最後、19人の決勝戦まで残ることができたんですが、制限時間5時間が経ってタイムアウトになり、入賞を逃してしまいました。そのときの審査委員長がジョエル・ロブションシェフだったんですが、彼にはあとで「バカヤロウ」と怒られました。

シマジ:何分遅れてしまったんですか。

飯塚:30秒のオーバーでした。

シマジ:たったの30秒ですか。厳しいものですね。

飯塚:それからしばらくして、「青柳」や「赤坂バサラ」を経営していた小山裕久さんという方に「晴海にある料理学校でフランス料理の講師をやらないか」と誘われたんです。まあ、まだ若かったこともあるんですが、それから3年間教鞭を執りました。その間、和食の技も学ぼうと「晴海バサラ」などで研修させていただきました。

シマジ:飯塚シェフは子どものころから料理を作ることに興味があったんですか。

飯塚:小学生のころにクッキーを焼いたり、チャーハンを炒めたりした記憶はありますね。わたしの通っていた県立十日町高校はみんな猛勉強していましたが、わたしはどうも勉強に身が入らず遊び呆けていましたね。

シマジ:実家はどんなご職業なんですか。

飯塚:田舎の呉服問屋でした。

シマジ:ご兄姉は?

飯塚:姉が1人いまして、いまピアノの先生をやっています。

シマジ:じゃあ、飯塚シェフもなにか楽器をやるんですか。

飯塚:高校時代にエレキギターを買ってもらったんですが、まったく才能がありませんでしたね。

シマジ:また料理人の世界に戻りますが、フランス料理の講師をしてからどうされたんですか。

飯塚:小山さんに「将来どうしても自分の店を持ちたいので、そろそろ辞めさせてください」とお願いして、辞めたのですが、縁あって再びロブションの店に戻ったんです。

シマジ:飯塚シェフにとって、ジョエル・ロブションとは運命的な繋がりがあったんですね。

飯塚:そんな気がしますね。ちょうどロブションさんが六本木ヒルズの2階にあった「ラトリエ ドゥ ジョエル・ロブション」をオープンしたばかりでシェフとして働いたりしました。だいたい37歳からの5年ぐらいの間のことでした。その後42歳で自分の名前の店を持つことになったんです。

シマジ:おめでとうございます!

飯塚:ただ、はじめは紆余曲折あったんです。資金を出してくれた方がいたんですが、これがどうもおかしな方だったんです。でもそれを買い取ろうという救世主のような不動産関係の女主人が現われました。わたしにしてみると、ただただ運が良かったと思います。で、そのあとすべてを清算しまして、晴れて真実オーナーシェフになれたわけです。

シマジ:飯塚さんのお顔はなかなか強運の相であるように見受けられます。わたしは週末だけバーマンをやっているんですが、新宿伊勢丹メンズ館8階のサロン・ド・シマジというそのバーでは、“格言コースター”を作っています。お客さまに合わせて格言を選び、1杯ごとに1枚お出ししているんですが、そのなかにこういう格言があるんですよ。「男の顔は40歳までは両親の作品であるが、40歳からは自分自身の作品である」

飯塚:なかなかの名言ですね。使わせていただいてもいいですか。

シマジ:どうぞ、どうぞ。飯塚シェフはふくよかで、なかなかいいお顔をされていますよ。これからもっともっといいお顔になっていくんじゃないですか。

土屋:今日差し上げたSHISEIDO MENを毎朝お使いいただければ、さらにいいお顔になることは間違いないです。

立木:さすがは資生堂のお嬢だ。

土屋:ひとつ質問してもいいですか。

飯塚:どうぞ。

土屋:飯塚シェフはどうして帝国ホテルを受けなかったんですか。

シマジ:うーん、たしかに鋭い質問ですね。

飯塚:じつは辻学園を卒業して帝国ホテルを受けたんですが、見事に落ちたんです。

土屋:そうですか。それは失礼いたしました。

シマジ:それはむしろ、帝国ホテルにとっての大損失だったんではないでしょうか。

立木:さすがはシマジだ。しかしそうしてお前は人をいい気持ちにさせておいて、自分がえこひいきしてもらおうという魂胆なんだろう。

シマジ:バレバレでしたか。

飯塚:シマジさんがいらっしゃるなら、いつでも喜んでえこひいきさせていただきますよ。

新刊情報

神々にえこひいきされた男たち
(講談社+α文庫)

著: 島地勝彦
出版: 講談社
価格:1,058円(税込)

今回登場したお店

六本木 Restaurant Ryuzu
東京都港区六本木4-2-35
Tel:03-5770-4236
>公式サイトはこちら (外部サイト)

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