The road to Free to Shine
プロローグ
太陽がなければ、ひとは生きてはいけない。
しかし、太陽の光に含まれる紫外線は、
ひとにダメージを与えるという側面もある存在だ。
人間が太陽の下、どうすればすこやかに、
美しく生きられるのかを知りたい、
そして、その成果で世の中に貢献したい。
アネッサが生まれるよりずっと前、
今から100年も前のこと。
資生堂の紫外線研究は、
そんな大きなビジョンのもとに始まった。

100年前、
アネッサの先祖が
生まれる
むかしむかし、アネッサ誕生よりさかのぼること約70年。日本で「ウビオリン UVIOLIN」という化粧品が生まれた。1923年のことであった。名前の中にUVが含まれていることからもわかる、資生堂の最初の日やけ止め化粧品だ。
新しい価値が命!
1872年、銀座に生まれた薬局。当時の日本に良質な薬品が少なかったことから、使命感に燃えたファウンダー、福原有信が興したのである。資生堂のはじまりだ。
創業者の息子で後に資生堂初代社長となる福原信三は、アメリカ留学から帰国した1916年、薬局から化粧品部を分離・独立させ、「試験室」をつくり、本格的な化粧品研究を開始した。彼は、もともと資生堂にあった薬学の知見と海外で得た知識に、自らの「夢」を掛け合わせ、新しくて高品質な化粧品を次々とつくり出した。

その中のひとつが1923年に誕生した「ウビオリン」だ。パッケージには「紫外線を吸収する物質と反射する物質を配合せるもの」と記され、現在の日やけ止めの基本骨格がすでに確立されていたことがわかる。
当時、紫外線のことは現代のようには解明されていなかった。海外から日本に伝わった「アウトドアでのレジャー」の概念の浸透に伴い、太陽の下で人々がいかに美しく健康でいられるかという願いから、いち早く研究と商品化がなされたのである。
パッケージもどことなくアネッサに通じる愛らしさ。「新しくて素敵なものを使って、健康に豊かに過ごしてほしい」という願いが込められているようだ。


当時のレジャーシーンがイメージできる
1992年、アネッサが誕生する
ウビオリン誕生から70年の間に、いくつもの日やけ止めブランドが生まれた。そして1992年3月、「アネッサ」が誕生する。紫外線防止効果、耐汗性、耐水性に優れ、快適な使い心地と、それまでの日やけ止めにはなかった「ファッション性」「おしゃれさ」を備えたものであった。

ネーミングは、太陽の力を受けた砂「熱砂」に由来し、「太陽のもと、この美しい地球の上で、すべての人が輝き続けられるように」、と願いを込めている。ネーミングの優雅さやオリジナリティーにも、資生堂が日やけ止めを新しい領域へ向かわせようとする意志が込められている。
オールシーズン型アウトドア化粧品をうたい、最初のキャッチコピーは「アネッサは部屋にいない。」同年10月には地球環境汚染物質調査を行う「南極点探検隊」の紫外線対策にも使用された。リゾートから南極まで。本格サンケアの誕生である。



見えない相手を
見つめる
紫外線はなぜ紫外線というのか。太陽光の中の可視光線(見える光)の端にある紫色の外側にある。つまり紫外線対策は、目に見えない敵との戦いなのである。
そんな相手に対し、研究者たちはどんな研究をし、どんな苦労を乗り越えてきたのだろうか。
1972年、世界に向け
「光と皮膚のセミナー」を開催
資生堂は、創業100周年を迎えた1972年、東京に世界中の皮膚科医や化粧品の科学者を招いて「光と皮膚のセミナー」を開催した。50年以上前は、まだまだ夏は日やけがファッショナブル、という認識が強かった時代である。紫外線の肌への悪影響という視点を世界に広く認識させた点でも極めて有意義なシンポジウムであった。

光と皮膚のセミナー記録集表紙
一般公開セミナーと並行して、「光感作と光防御に関する国際会議」も開催。紫外線が人間に及ぼす影響を皮膚科学分野から探求し、化粧品メーカーとしてどのような対処ができるのか、専門家を招いて討議した。このような国際シンポジウムは世界でも初めてのことであったと言われる。
資生堂は、化粧品をつくる前に、まず人間に共通の課題としての紫外線を把握し、どうあるべきかを公開で討議することから始め、世界の人々の役に立とうとしたのである。


研究員はネパールへ向かった
研究において仮説を立て、検証し、商品化していくのは気の遠くなる仕事だ。新知見の裏には何年もの地道な探求がある。アネッサが生まれる直前の1990年、資生堂研究員4名は、紫外線と肌の関係を深く調べるため、ネパールの高地に向かった。雲よりも高い標高、強い紫外線。日やけ止めを使う習慣もない。そんなところで紫外線を浴び続けている人々の肌はどのような状況なのか。

それを知ることが、より人類と紫外線の影響を解き明かすと信じて肌測定機材を担いで向かったのである。単に化粧品をつくるためではなく、人がより良くいきるために化粧品には何ができるかを常に考え行動するのが、資生堂の研究員なのだ。その荷物の中には、アネッサの試作品も入っていたという。

また、研究成果としての日やけ止めの効果を検証するのも研究員の仕事だ。人工光がなかった過去には、背中に自他社の日やけ止めを塗り分け、同じ条件でどの程度の防御効果があるのかを研究所の屋上で何時間も横になりテストしていた、という記録も残っている。



SPFとPAの世界へ
終わらせることは、始めるより大変だとよく言われる。アネッサは、ひとつの競争を終わらせた経験を持っている。SPF数値競争である。
それは、勝つのは強いものではなく、人間にとって有用なものなのだという真理を教えてくれる。
効果を数値化するSPF値の誕生
測定法や表示のルールを日本の化粧品業界でリードしたのが資生堂。1980年4月、日本で初めてUVBの防御効果を示すSPF表示を行なった商品を、資生堂が発売した。最初のSPF値は、6であった。
紫外線防御効果を数字で比較し選ぶことができる時代になったのである。そしてUVAを防御する効果の数値であるPA(当時はPFA)が世に出るのは後の1986年のこと。

SPF競争のさなかでの資生堂の哲学
1990年代、各メーカーはSPF値を競うようになった。そのため、そんななか資生堂は、自社の研究やモノづくりの哲学に照らし、SPF競争には加わらない決断をした。社内でも「なぜ資生堂はSPFの高い製品をつくらないのか」「競争に負けていいのか」という意見もあったという。
当時の研究担当役員のメッセージが残っている。資生堂の日やけ止めの定義について、「必要にして十分なサンスクリーン効果を持つSPF値であること、使い心地が良く、白さが目立たなく、しかも効果が持続する設計」と断ったうえで、こう続けている。
「このようなことは一見SPF競争を回避しているように見えますが、これこそ真にお客さまを第一に考えた私たちの企業姿勢と考えてよいと思います。正しいサンケアの知識を持っていただき、全く新しい価値を持った新世代のサンスクリーンを提供することが、私たちの提案です。これこそ資生堂の考え方と技術の先進性を示すものです。どうぞ自信をもってお客さまにお使いいただくようにご推奨ください。お使いいただければ、必ず実感していただけるはずです。」本当に肌のことを考える製品作りで選ばれることを宣言したのだった。

資生堂が率先し、日本化粧品連合会は新しいSPF測定法基準を制定。2000年1月からは製品に表示できるSPFの上限を50+とした。

さらに、2010年からISO(国際標準化機構)の国際規格であるISO 24444として発行されているSPF測定法は、日本化粧品工業連合会が自主基準としてきた方法をベ-スに審議され、のちに国際規格となった。現在は、日本ではSPFが最大50まで、PAは最大++++まで、と表示がルール化されている。

噂。
「同じSPFでも
アネッサは違う」
同じ条件の下で割り出されるSPF値。きちんと選べば同じように日やけを防げるはずだ。でも実際には、やける、やけないの差は、ある。
アネッサは誕生以来、真摯にこの理由と向き合うことで着実な進化を続けてきた
日やけ止めは、落とすまで
落ちないわけでは「ない」
日やけ止めは、塗って終わりではない。肌の上に正しく乗っているときに限ってその効果を発揮する。長年の研究からアネッサは、SPFを支えるのがブロック膜の強さ(落ちにくさ)であることを知っている。
太陽の下での人間の行動パターンを分析し、ウオータープルーフ機能は当然のこと、球状の粉末よりこすれに強い板状粉末の採用、塗りむらを起こさないためのなめらかな使用感など、全方位的に徹底した努力を重ねている。これが、「アネッサは違う」という定説につながっているのである。
ぬり方も研究対象
そうはいっても塗り方の基本は知ってほしい。体に塗るときには手に取ってからではなく、線状にピーっとおいてから、手のひらを大きく使ってらせん状にのばす。顔も、ちょこちょこぬらずに適量を5か所に置いてから全体に延ばし広げる。イメージは「面」でぬりのばすこと。どんなに優秀な日やけ止めでも、ムラがあればやける。だからこそアネッサは、どう塗ったとしてもきちんと肌を守れるように進化を続けている。


アネッサは環境に適応する
あるクリエイターの言葉。「これからの女性はもっと自由に世界を飛び回るようになる。昨日は砂漠、今日は飛行機、降りたら熱帯。そんなとき、いちいち化粧品を変えなくていいように環境に合わせてコントロールするような機能が必要ではないか。」

人が自由に生きる上で、小さなストレスをなくしていくことはとても重要だ。湿度、熱、水、といった様々な要因に対応した日やけ止めを選ぶのではなく、日やけ止めが勝手に機能を発動するように進化すればよいとアネッサは考える。オートブースターテクノロジーは、汗・水・熱などに触れると、UV防御膜が自動で強くなる革新的な技術。レジャーから日常まで様々な環境に対して、自ら自在に適応していく。


アネッサ
広告ヒストリー
アネッサは誕生以来、
毎年新しいCMやポスターを発信してきた。
日やけ止めの進化や歴史をビビッドに感じてみよう。
1992~97 デビューを宣言、
「やかない」を訴求する時代

鮮烈なデビューの翌年からは、高機能性を全能感の高いキーワードで発信。「夏をカラダに残さない」など文学的レトリックが数年おきに浮上するのも、アネッサあるあるだ。
- 92アネッサは部屋にいない。
- 93やかない、くずさない、
アネッサの意思と機能 - 94360°の太陽、ハネ返すアネッサ
- 95全身やかないウルトラサンスクリーン
泳いでも汗をかいてもつけなおしなし - 96帰るときまで、来たときの肌
- 97夏をカラダに残さない

1998~03 透明感から
快適さの時代

巷には白くなってしまう日やけ止めや使い心地を突き詰めていない日やけ止めもあった中、「透明」「さらさら」などの表記が目立つ。異彩を放つのが、2000年の「未来ダメージ予防型」。紫外線による光老化についていち早く着目したのである。翌年全く違うアプローチの表現になっているところを見ると、当時の状況には少し内容が早すぎたのかもしれない。
- 98透明ヴェールで日やけを止めろ!
- 99この夏、透明感3倍アネッサ
- 00未来ダメージ予防型アネッサ
- 01サラカル肌持続。
瞬時に透明、見事に焼けない - 02見事に焼かない。見事に快適。
- 03ずっと、アネッサがきいていた

2004~09 「太陽系最強」時代

日やけ止めは美容目的だけでなく、人類が太陽と共にあるためにという視点で語られるようになってきた。強く美しく生きるには、「排除」するだけではなく「共生」の概念が欠かせないというニュアンスが感じられる。
- 04日やけ止めは紫外線止めへ
- 05金のトリプルバリア
- 06太陽系最強。あらゆる紫外線をカット
- 07新・太陽系最強
- 08紫外線、制覇
- 09太陽と生きていく。

2010~15 やさしさと
最強の共存時代

「強いもの=やさしくない」、という心理的ブレーキが発動したのだろうか。自分を大切にし、肌を守るという文脈の、やさしさいっぱいの時代が続いた。
- 10最愛の肌へ。最強のアネッサ
- 11最愛の肌へ。私はやかない。
白い肌を守りきる。 - 12その素肌、必ず守る。
わたしに優しい最強アネッサ - 13もう後悔したくないから。
最強++++のアネッサで守ってみせる! - 14肌にとろける快感ジュレ
- 15肌が、よろこぶ。
美容液ジュレプレミアムアネッサ

2016~ 日やけ止めの
新しい存在感、
ビューティーサンケアへ

アネッサの進化は、機能性の進化のみならず、存在そのものの進化へ。Free to Shineのコンセプトの元、「ビューティーサンケア」というカテゴリーの訴求がはじまる。
- 16汗は女の武器になる
- 17ずっと美しい肌で
- 18美肌よ、ずっと輝け
- 19スキンケアする最強UV。
ビューティーサンケア - 201日中、楽しいがつづく
- 21ピンチがチャンス
- 22シミ対策に迷いなし
- 23最強UVで無敵の夏


太陽がある限り
アネッサは進化する
日やけ止めは、太陽のもとで生きる人類のためにある。アネッサはこれからも人類と太陽のあいだで、進化し続けていく。
紫外線を美肌の道具に?
アネッサのフィルターを通ることで、紫外線が肌を美しくする光にかわる…そんな夢のようなことも現実に。2022年発売のアネッサ デイセラムは、その「サンデュアルケア技術」を搭載したもの。光老化を防ぐこと、紫外線を美肌光に変えること、その両方を叶えた画期的なセラムである。

夜用のアネッサ?
夜のうちに、やけにくい肌を準備する。アネッサのテリトリーは、そこまで広がっている。ナイアシンアミド配合で日中のダメージをその日のうちに癒し、次の日を生きる肌のためにうるおいをチャージしてやけにくいよう準備する。生きていることそのものが太陽と共にあることであることを踏まえ、太陽が出ていない時間もサンケアの時間として有効に活用するのがアネッサなのだ。


これからの人類のために
~
遊び場の減少、スクリーンタイムの増加など様々な要因により、子どもの運動不足・体力の低下が社会問題に。太陽の恩恵を受けながら生きることは子どもの身体の発育のみならず、情緒面の発達にも大きな影響を与えている。アネッサは、これからの未来を担う世界の子どもたちに太陽の下で活動する機会を提供・支援することで、彼らの心身供の健全な成長をサポートする。
日本とベトナムで、アジアの子どもたちをターゲットとしてサッカーイベントを実施する。