愛してやまない男たち。

すしボーイのブログ(すしボーイさん)

僕にとってのニューヨークはエンパイアステートビルディング

僕にとって、ニューヨークは特別な場所だ。それは幼稚園坊主の時のある出来事から始まった。当時僕の父親はある日本のメーカーと外資の資本が合体した会社のエンジニアだったので、しょっちゅう海外に出ていた。昭和30年代(1960年代)の事だから海外にそう簡単に行ける時代でもなかったから、一度海外に出ると3カ月、半年、そして一年以上日本に戻らないという事も結構あったようだ。さすがに一年以上の海外生活から帰ってくるときは、京都から僕と妹も「よそいき」の服を着て、ちょっとおめかしをして羽田空港までお出迎えに行く。そんな時代だったのだ。

そんな父親が長い海外出張に出ているときに、向こうからお土産を送ってくれた事があった。まだ当分帰れないからという事だったのだろうと思う。日本では見た事もないラジオを組み立てるキットや、妹にはピンクの可愛らしいドレスなんかが入っていた。そしてその小ぶりの段ボールの中にソノシートのレコードとアメリカのコインが電車のレールに轢かれたように楕円形になったものがいくつか入っていた。ソノシートといっても最近の人はわからないと思うので説明しておくと、レコード盤を薄いビニールで作ったもので、普通のレコードは落としたりすると割れてしまうけれども、このソノシートは落としても割れない利点があったのと、おそらく安価に製作できたのではないだろうか。そのころは雑誌の付録なんかでこのソノシートにアニメのテーマソングが録音されていたりしていた時代だった。そして楕円形のコインは本物の1セントを潰したものだった。

母親と三人で早速そのソノシートをレコードプレイヤーに乗せて、針を落としてみた。そうすると、そこからはなんと父親の声が流れてきたのだ。「T君、Hちゃん、元気ですか?パパは今ニューヨークのエンパイアステイトビルディングというところに来ています」そんな言葉で始まったソノシートはたぶん全部で3分かそこらぐらいの録音だったと思うんだけど、父親の興奮している様子が声の雰囲気でわかった。幼稚園坊主の僕の心にこの日、ニューヨークとエンパイアステイトビルディングという名前が初めてインプットされたのだ。そのソノシートのレコードから流れる父親の声が、この録音はエンパイアステイ トビルディングの屋上の御土産物売り場で録音してもらいました、と言っていた。その頃のエンパイアステートビルディングから世界中の人達が自分の子供や妻や恋人に自分の声を録音して世界中に送っていたのだと思うと、かなりロマンティックな気持ちになってくる。そして父親のその声は「必ず家族でまた、ここに来ましょう」という言葉で終わっていた。

それからしばらくして父親にプエルトリコへの転勤話が起こった。その頃の僕にとってはプエルトリコもニューヨークもおんなじようなものだと思っていたので(つまり広い意味での外国)ドキドキしながら、その転勤が本決まりになるのを待っていた。本当に外国に行けると思っていたのだ。思ってみればその頃から僕の心の中には海外への憧れがあったのかもしれない。結局そのプエルトリコは父親が断ったと聞いて、子供心に随分がっかりしたのを覚えている。

結局僕がアメリカのニューヨークに初めて行ったのはそれから随分時が流れてからのことになった。仕事で出張に行ったニューヨークが初めてとなった。2泊してそのあとロサンゼルスに回るという強行軍だった。クライアントと一緒だったので行けないと思っていたんだけど、幸いその人が『エンパイアでも登りますか?』と言ってくれたので、お供としてはじめて運命のエンパイアステイトビルディングに行ったのだ。展望台に上がって僕がまずしたのは景色を見る事でも何でもなくて、あのソノシートの録音機が無いだろうかという事だった。残念ながらもうそこにはそういう機械は無かった。できれば自分の子供にも送りたいと思っていたのだけれど残念だった。わざわざお土産物屋のオジサンにも聞いてみた。でもおじさんもさすがに知らなかった。しかし、何とあの1セント、つまりワンペニーをペチャンコにしてお土産にする機械は現役だった。僕はポケットから何枚かのペニーを取りだして、機械に入れペチャンコにした。その楕円形のワンペニーを大事に財布の中に戻した。

その後、どういうわけか縁があってニューヨークに仕事で駐在することにもなったのだけれど、どうしてそれがロンドンとかパリとかあるいは香港ではなくて、ニューヨークだったのかと考えるとホントに不思議な気がする。なぜかニューヨークにはそんな子供の頃からの想い出もあって、引き寄せられるというしかない縁を感じるのだ。僕の子供たちも少しの間ニューヨークに一緒に暮したので、彼らもまた近い将来ニューヨークに戻っていくのだろうか。そして彼らなりの世界の中心地であるあの街での仕事や生活をするようになるのだろうか。子供たちに負けず、また近いうちにあのニューヨークで仕事をし、そして 暮らしてみたいと本気で考えている。ちょっと照れ臭いけれど、まだまだ夢の途中なのだ。

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