
<店主前曰>
50本入りの葉巻はシルクの黄色いリボンで結ばれている。八木公徳はそのリボンをせっせとかき集めてそれを編み込んでもらいチョッキにまで仕立ててしまった。そのシガーチョッキを着て太い葉巻を吸っている八木は幸福そうな顔をしている。このシガーバーにシェーカーがないのは酒よりも葉巻を売りたいがためなのだ。しかし八木は寛大なマスターである。お客が自分のシガーを持ち込んで吸っていても八木は一言も文句をいわない。シガレットを吸うお客に対しても寛容なものである。
一方、伊勢丹新宿店メンズ館8階のサロン・ド・シマジではシガレットは禁煙だし、店で買った葉巻だけしか吸えないルールになっている。シングルモルトの飲み方も、ストレートもオンザロックも禁止している。理由はお客が食道ガンになることを防いでいるのである。開高健先生をはじめ多くのストレートラバーが食道ガンでこの世からいなくなった。本場スコットランドではシングルモルトは必ず加水して飲まれている。
シマジ 八木のところではよくシングルモルトをストレートで飲んでいるお客がいるけど、あれはやめさせたほうがいいね。
八木 うちはシングルモルトよりシャンパンがよく売れています。
土谷 もう一杯ベリーニをいただけないでしょうか。
八木 わかりました。
シマジ ここは桃をジューサーにかけて何で割っているんだ。
八木 アンリオのシャンパンです。
シマジ 本場ベニスのハリーズバーではプロセッコで割っている。それをおれがカナユニのバーマン武居に教えたんだ。シャンパンで割るとちょっと甘くならないか。
八木 いや、アンリオでしたらそんなに甘くなりません。そういえば先日店が休みの日、女房とホテルオークラに行ってベリーニを注文したら、ドンペリニヨンで割っていましたね。値段は1杯6,000円でしたか。
シマジ それはやり過ぎだよね。味は甘くて値段は辛いってやつか。
立木 高級感を出そうと思ってやっているんだろう。
八木 そうかもしれませんね。土谷さん、はい、どうぞ。
土谷 うーん。桃の香りがいいですね。
シマジ 最近個人的に飲んでいるサントリーの山崎のミズナラというシングルモルトもアフターノーツが桃の香りがするんだよ。八木は飲んだことあるか。
八木 ありません。値の張るモノなんでしょう。
シマジ バーショーで売られたもので5万円だったかな。伊勢丹のサロン・ド・シマジが大入りでご機嫌で帰ってきたとき、よく1人で飲んで愉しんでいる。
八木 今度ぼくにも飲ませてください。
立木 おれにも飲ませろ。そんな貴重なシングルモルトが広尾のサロン・ド・シマジにあるとは知らなかった。シマジ、どこに隠していたんだ。
シマジ 別に隠してなんていませんよ。タッチャンが気がつかなかっただけです。今度飲んでください。これは日本のシングルモルトとしては秀逸だね。はじめ白檀の香りがしてあとで桃の香りが迫ってくるんです。あっ、そうだ。さっきから訊こう訊こうとおもっていたんだけど、土谷さんは店頭で対面販売をしていて、肌の測定結果がAの人はいましたか。
土谷 いままで3人の方がAでした。
シマジ 女性ですか、男性ですか。
土屋 一人の方は20代後半の女性であとのお二方は30代の女性でした。
立木 関西方面のほうが肌がいいんだね。
シマジ 全員女性か。男はなかなか難しいのかな。
土谷 お肌の測定にくるのは圧倒的に女性です。
立木 この肌測定のマシンはもともと女性のために開発されたものなんじゃないの。こうしてシマジが持ち込んで男の肌測定をしているけど、女性用のマシンじゃないか。
土谷 いいえ、これは男性の肌も正確に判定してくれます。
立木 たしかにアイデアとしては男の肌を測定するのは斬新だけどね。シマジ、男性でAが出たらロマネコンティを飲ましてくれ。
シマジ あっ、そこにロマネコンティのマールがあるじゃないか。
八木 はい、飲みますか。
シマジ 高いんだろう。
八木 ここでは1杯12,000円で売っています。
シマジ それじゃあ、おれが個人的に払うから1杯くれないか。タッチャンも飲みますか。
立木 おれはワインのロマネコンティが飲みたいんだよ。マールはいらない。
土谷 先程からロマネコンティのマールって話に出ていますが、ワインとマールとはどうちがうんですか?
八木 大いにちがいます。マールはワインの絞りかすを沸騰させて冷やして作る強い蒸留酒なのです。度数も3倍以上ワインより高いんです。ロマネコンティのマールの値段は1本20万円しますが、ワインのロマネコンティはビンテージによっては軽く100万円はします。
シマジ 凄い香りだね。アタックも強いね。少し加水したいな。
八木 勿体なくありませんか。
シマジ おれはいまさら食道ガンになりたくない。
立木 そういえばパリのレストランでワインを水で割って飲んでいた粋な老人がいたね。
シマジ そこまではしたくないけど。中国人はワインをよくコーラで割って飲んでいるよね。
八木 土谷さんは、このあと大阪に日帰りされるんですか。
土谷 はい。午前中は会社で試験を受けて、その足でここに参りました。
シマジ 何の試験だったんですか。
土谷 毎年資生堂のすべてのBCは試験を受けます。はじめはペーパーテストでそのあと実技の試験を受けます。たとえばメークの仕方とか。
立木 へえ、毎年試験があるの。大変だね。
土谷 はい。
立木 編集者もこのところ質が落ちてきたから、毎年試験をしたほうがいいかもね。
シマジ たしかに編集者は会社に入ってから定年になるまで試験はないものな。それはいいアイデアかもしれないね。編集者にはどういう試験がいいだろう。
立木 簡単だよ。10人ぐらいずつ編集者のグループを作って、近所の寿司屋のおっちゃんを会社に呼んできて、彼らにインタビューさせすぐ原稿を書かせれば、一目瞭然に才能があるかどうかわかるだろう。文章は体を表すというではないか。
八木 そういえばつい先日、郵便受けに手紙と顔写真付き履歴書が入っていました。「わたしを雇ってください」という趣旨のことが書かれてありました。
シマジ 八木は人を雇う気があるのか。
八木 まったくありません。いままで雇ったことはなく、ずっと一人でやってきました。そのほうが気楽でいいですよ。
シマジ そうなのか。今度はやっぱりシングルモルトに戻そうかな。タリスカーの年代モノか、そこにあるね。何年モノなんだ。
八木 これですか。22年モノです。
シマジ それをトワイスアップにして氷を入れてシェーカーで振ってくれ、といってもここにはシェーカーがないんだっけ。
八木 水をチェーサーでつけますから、ご自分で加水してください。
立木 バーマンとしてシマジみたいなうるさい客は嫌だろう。
八木 何でもお客さまのいうことを聞くのがバーマンですから。それにシマジさんには若いときからお世話になってきましたから。
立木 弁当の恩義がそんなに長く続くものなのか。
シマジ タッチャン、最近は原稿を書いていて、時計をみるともう9時か、というとき、おれは急いで八木に電話をして、いまから例のステーキ弁当を注文してくれ、10分以内に行く、という。すると八木が気持ちよく「はい、わかりました」と。店に着くころにはカウンターにちゃんとステーキ弁当がきているんだ。
八木 隣の炭焼焼肉 きらく亭からシマジさんのために出前をしてもらうだけですよ。
立木 きらく亭ってなかなか予約が取れない有名な店だよな。今度おれが電話してもやってくれるか。
八木 もちろんです。立木先生のためなら喜んで。
立木 よしよし。