
撮影:立木義浩
<店主前曰>
わがライバルにして親友の石川次郎の息子淳太は、オヤジと同じ編集者の道に入らなくて正解であったと思う。普通、オヤジと同じ職業についてオヤジを抜くことはなかなか出来ないものである。ましてや石川次郎の足跡は、雑誌界に燦然と輝いている。それにしてもこの親子は気持ちがいいほど仲がいい。ひとり息子の淳太をジローは手塩にかけて育てたのだろう。編集者の出勤は遅いので、淳太が小学校に上がるまでの間、ジローは毎朝のように出社前に淳太とキャッチボールをしたり、泳ぎやボクシングを教えたりしていた。テニスもスキーもジローがコーチとなって教えた。淳太がイタリアから帰国すると今度はゴルフも教えた。そんなわけで淳太は堂々たる偉丈夫に成長した。彼のオヤジは編集者には珍しく優れたアスリートであった。
シマジ:青白いインテリになるよりも逞しい男になれ、というのは石川家の伝統らしいね。
石川:たぶんオヤジの母親、ぼくにとっておばあちゃんの教えだったようですね。子供のときからオヤジは母親に「勉強しろ」とはいわれず「外で遊んでこい」といわれて育ったようです。だからオヤジはぼくにもそう教育してくれました。スポーツはほとんどオヤジから教わりましたね。
シマジ:ジローもそうだが淳太も骨太の立派な肉体をしているものね。
平田:男はまず強靱な肉体あっての人生ですよね。とくにわたしは体が不自由になってそれをつくづく知りました。
シマジ:でも平田さんはそんなことにめげずお元気に頑張っているじゃないですか。右手だけでゴルフも愉しんでいらっしゃるし、たいしたものですよ。
立木:シマジは学生のときはなにかスポーツをしていたのか。
シマジ:恥ずかしながらなんにもやったことがないんですよ。体操の授業のときも頭が痛いとかなんとか理由をつけてサボっては、図書館に籠もって本を読んでいましたからね。
立木:若いときは結構暗い奴だったんだね。よくそれでゴルフが出来るようになったもんだ。
シマジ:ゴルフは柴田錬三郎先生の命令で始めたようなものだよ。先生に会っていなかったらゴルフに興じることはなかったかもね。だけど25歳からゴルフをやっているにしては、おれのゴルフなんてひどいものだよ。それに比べてジローなんて45歳くらいからはじめてあっという間におれより格段に上手くなってしまったからね。第一ジローとおれとはドライバーの飛距離が圧倒的にちがうんだ。あいつは平均250から260ヤードは飛ばすんだが、おれは200ヤードがやっとだったからね。
石川:オヤジによれば、シマジさんはパターだけは天才だそうですが。
立木:その秘密はおれがよく知っている。シマジが本を作るために青木功プロの合宿を取材したときおれも撮影で同行したんだけど、こいつはパッティングをアオちゃん直々に徹底的に教わっていたんだよ。
石川:ほかのショットはどうして習わなかったんですか。
シマジ:アオちゃんはひ弱なおれの肉体をみてこれは無理だろうと判断したのか、パッティング以外は教えてくれなかったんだ。
平田:シマジさんはエッセイにかっこよく書いていますよね。「ティーグラウンドでは哲学者になり、グリーン上ではギャンブラーになる」って。
シマジ:いまはもうその片鱗もないですね。
立木:シマジが謙虚になると気持ち悪い。
シマジ:話を淳太に戻そうか。淳太が高校生のころ、料理人になりたいとオヤジにいったとき、ジローはどういう反応をしたんだい?
石川:ちょうど高校3年生のときでしたか、「オヤジ、おれ料理人になりたいんだ」と切り出したら、嬉しそうにニコニコしながらその場で賛成してくれたんです。
立木:たしかに男が自分に合った一生の仕事を早くにみつけるのは難しいからね。高校時代に淳太が進路を決めたのは賢明だね。しかも高校を出てすぐにイタリアで修業したのがよかったんじゃないの。
石川:お陰さまでここまでやってこられました。立木先生はどうして写真家になられたんですか。
シマジ:タッチャンは生まれるときにカメラを握ってこの世に現れたらしいよ。
立木:馬鹿いっちゃいけない。おれは20歳くらいから写真を撮っているが、それが徐々に仕事になっていったんだよ。誰か有名なカメラマンに弟子入りしたわけでもなかったんだがね。
シマジ:やっぱりそれは天職だったんだね。淳太が大学にでも進んで「オヤジ、おれも編集者になりたい」なんていわれたらジローは大変だったろうね。心中察するに余りあるね。
立木:さっきも言ったが、息子がオヤジと同じ職業に就いてオヤジを抜くというのは、なかなかできないことだからね。
平田:その辺のことは先日朝日新聞の「人生の贈りもの」で石川さん自身も話していましたよね。淳太さんがまだ中学生と思われる親子の写真が載っていましたが、すでに淳太さんの右腕はお父さまよりガッチリしていて太かったですね。
シマジ:あの記事はおれも読んだよ。ジローは早くに父親を亡くしてお母さんが女手一つで育てたんだってね。しかもお姉さんがジローの上に6人もいたんだってね。そこまではおれも知らなかった。子供のときは女に囲まれて大変だったろうね。下手したらゲイの道に走っていたかもしれないよ。
立木:それは考えすぎじゃないか。
シマジ:いや、だからこそお母さんはジローに勉強するより外で遊んでくるように薦めたんだよ。家にいたら女の子の遊びをやってしまうじゃないか。
立木:総じてジローちゃんは平凡パンチをはじめ多くの雑誌に携わったけど、やっぱり新しいグッドセンスで雑誌を売っていた。一方シマジはスケベロマンで雑誌を売っていた。そんなところかな。
シマジ:ジローのセンスのよさはわかるけど、おれの場合、たしかにスケベロマンも売ったけど、それよりもロマンティックな愚か者の美学というものを、若者たちに教えたかったんですよ。ところでジローはこの店によくくるの?
石川:はい、よくというよりときどききます。
平田:オープンしたての頃はお父さまの人脈がものをいったでしょうね。
石川:そうですね、お陰さまで。でもいまではオヤジの知り合いよりもたまたま入ってきたお客さまのほうが多いですね。会った瞬間から気に入ってくれたお客さまのなかにシマジさんとも親しかった藤巻幸夫さんがおられました。去年の秋口にたまたまいらっしゃってから「この店が気に入った」といろんな方と立て続けにやってきてくれました。去年の暮れから正月にかけては4つも予約が入っていたんです。それが、「ちょっと体の具合が悪くなったので予約をキャンセルしてくれないか」と電話があったまま、3月に訃報を聞いたときはビックリしましたよ。
シマジ:そうなのか。藤巻も常連だったのか。あいつは平成の快男児だった。だが倒れてからはあっという間に亡くなってしまった。沢山種を蒔いてこれから刈り取りに入る矢先のことだった。藤巻自身さぞ無念だったろう。
石川:ホントにいい方でした。「淳太、おれの師匠のシマジさんと必ずくるからね」とおっしゃっていましたよ。
立木:藤巻は元気の塊ってヤツだったのにね。セオのところのネスプレッソ・ブレーク・タイムで一度写真を撮ったことがあった。
シマジ:おれは12月1日発売の単行本『お洒落極道』の献辞を藤巻幸夫に捧げているんだ。表紙をはじめ各章の扉の写真は巨匠立木義浩撮影の豪華な本ですよ。最終章は三越伊勢丹ホールディングスの大西洋社長とおれの対談なんだが、それは藤巻幸夫に捧げる対談として本の最後を飾っている。
石川:是非是非読みたいですね。
シマジ:話が少し湿っぽくなってきた。淳太、メインディッシュはなんだ?
石川:最後はうちの自慢の鹿児島黒毛和牛といきますか。
平田:美味しそうですね。
石川:平田さん、期待して待っていてください。