
撮影:立木義浩
<店主前曰>
先日わたしが小澤バーマンの店を訪れたとき、以前置いてあったブラックボウモアがなくなっていることに気づきすぐに尋ねた。
「ブラックボウモアは売れてしまったんですか」
「はい、IT業種で大成功している社長が深夜訪れて、何か美味いシングルモルトはないかと訊かれました。ブラックボウモアのファーストリリースやラフロイグの1974年蒸留の31年物が有りますと言いましたら、それらを飲まれていきました。」
「へえ、豪気な社長だね」
「お帰りになられたのは明け方の6時過ぎでした」
「へえ」
わたしもブラックボウモアは飲んだことがあるが、ホワイトボウモア、ゴールドボウモアと比べてもブラックボウモアがとくに美味い。価格は10年前でも50万円はしたものだ。いまなら100万円近くはするだろうな。
しかしそんなわけで、そのうちここで一杯飲んでみたいというわたしの夢は、むなしく消えてしまった。
シマジ:小澤さんはどうしてパレスホテルに就職したんですか。
小澤:たまたま高校のクラスメートのオヤジさんがパレスホテルの食堂課長をやっていたんです。そのころわたしは人生の進路を飲食関係へと決めていましたから、YMCAのホテル学校に入ろうかなと考えていたんです。できればその前にホテル業とはどういうところか知りたかったので、その友人に頼み、高3のときオヤジさんの紹介でパレスホテルのコーヒーショップでアルバイトをさせてもらったんです。結局そのまま入社試験を受けて卒業と同時に正社員として採用されました。わたしが特にと希望したのが飲食課で、はじめに配属されたのはバーテンの下働きでした。
シマジ:そこで基本となることをきっちり身に着けられたんですね。好きこそものの上手なれといって人は好きなものに対しては熱心に努力するし、若き小澤さんは無我夢中で働かれたんでしょうね。でもここにいるタッチャンも凄いですよ。まあ徳島の実家が大きな立木写真館ですから、子供のときから写真に慣れ親しんでいたんでしょうが、写真学校を卒業すると同時に誰か有名なカメラマンのアシスタントになるわけでもなく、いきなりプロのカメラマンとして世に出たんですから、恐れ入りましたよね。
立木:なに言ってるの。シマジだって大学を卒業すると同時に週刊プレイボーイの新人編集者になり、文豪柴田錬三郎の担当としてブイブイ言わせていたじゃないか。
小澤:そのお2人が出会っていまでもこうして一緒に仕事をなさっているって素敵ですね。シマジさんがよくお書きになっているように、人生は出会いですね。
シマジ:小澤さんも人生で大きな出会いがあったでしょう。
小澤:そうですね。一人前のバーテンダーになったころ、ちょうど大阪万博がありまして、パレスホテルの系列の東洋ホテルに助っ人として行かされました。24歳のときでしたか。飲料関係で2番目の責任者でした。そこでワインから日本酒まですべての飲料をみていました。まだ当時は赤ワインより白ワインが売れていた時代でした。
シマジ:わかりますね。日本人は長い間日本酒を飲んでいたから、白ワインの方により馴染みを感じたんでしょう。そういえばパレスホテルには高いドイツワインがごろごろありましたね。
小澤:よくご存じですね。シマジさんは会社が神保町でしたからよくパレスホテルにもお越しいただいたんですね。
シマジ:大阪には何年くらいいたんですか。
小澤:7年です。そのあとは都ホテルに決まっていたんですが、友人の誘いもあって千葉市の富士見町でバーを開くことになったんです。店は順調にいっていたんですが、どういうわけか千葉には友人が沢山おりまして、わたし自身も根が遊び好きだったのが祟って3年で店を畳むことになってしまいました。それでしばらくブラブラしていたら、例のマティーニ作りの名人今井さんの部下だった海老原さんの紹介で、アピシウスを開店しようとしていた森社長にお会いしたんです。この森社長との出会いがわたしには大きかったですね。ちょうどわたしが36歳のときでした。それからシニアソムリエとして31年間アピシウスで働くことになるんですから、人生はやっぱり出会いが肝心ですね。
シマジ:わたしも何度かお会いしましたが、森さんはスケールの大きな方でしたね。
立木:体も大きな方でしたよね。
小澤:森社長は深い教養の持ち主で、開高健先生と対等に文学のこと、音楽のこと、絵画のこと、宝石のことなどを話されておりましたね。
シマジ:アピシウスにはシャガールなどの名画が何点も飾られていますものね。
小澤:森社長はとても人脈人望のある方でした。
シマジ:アピシウスは森さんの趣味でオープンしたようなフレンチレストランでしょう。それはちょうど資生堂のロオジエと似ていますね。ロオジエは資生堂のシンボルです。
小澤:ロオジエとアピシウスは人的交流も盛んです。
シマジ:たしかにそうですね。いまロオジエで大活躍の中本チーフソムリエは以前アピシウスにいらした方ですしね。
立木:それは店の格が一緒ということじゃないの。
シマジ:そうだろうね。
ところで、森さんはそもそもなにをやっていた方だったんですか。
小澤:森社長ははじめは紡績をやっておられたんですが、それが時代とともにダメになってきたとき、東芝や富士電機と組んでベンディングマシンの共同開発に成功されたんです。温かい飲み物と冷たい飲み物を一台で売れるベンディングマシンを作った方なんです。でも特許までは取っていなかった。寛容な方だったんでしょう。石原慎太郎さんが「最後の遊び人」と仰っていましたが、まさにそういう方でしたね。
シマジ:どこの生まれだったんですか。
小澤:愛知県出身です。
立木:森さんはアラスカに別荘を持っていて、フィッシング、ハンティング、ダイビング、ヨット、なんでもござれという人でしたよね。
小澤:ええ。シーズンになると北海道に出かけて行って、エゾシカを撃ってはアピシウスに送ってきたりもしていましたね。
シマジ:エゾシカを仕留めると開高先生に電話が入る。そうすると開高先生からわたしに電話がかかってきて、一週間後には小澤さんのサーヴでワインとエゾシカをいただいたものでした。
小澤:森社長、開高先生、シマジさんの見事な連携でした。
シマジ:原稿も締め切りの10日前には渡していただきました。「シマジ君、こういう性格を関西ではイラチと言うんや」と笑っていましたね。でも編集者にとってはありがたいことでした。そうか、開高先生が晩年宝石にのめり込んでいったのは森さんの影響だったんですか。
小澤:そうです。開高さんの宝石の知識はほとんど森社長からの受け売りだったかもしれません。
シマジ:たしかに作家は宝石を趣味にするほど儲かる商売ではないですからね。
小澤:スリランカのムーン・ババさんを紹介したのも森社長です。
シマジ:開高先生がいつもシンドバッドのように小粒のエメラルドの宝石をジャラジャラ持ち歩いていましたが、あれは森さんの影響だったんですか。わたしもエメラルドを一握りもらったことがありました。
立木:それはそのあとどうしたんだ?
シマジ:銀座のクラブに飲みに行って、女の子たちに一個一個あげちゃった。
立木:わずか一夜限りのシンドバッド、というわけか。