
撮影:立木義浩
<店主前曰>
以前この連載に登場した「オー ギャマン ド トキオ」のオーナーシェフ、木下威征の配下には5つの店があるが、白金にある「キャーヴ ドゥ ギャマン エ ハナレ」もその一つである。そこの料理人が今回のイケメンシェフ、新井拓徳(37)だ。木下シェフがどうして和食の店「ハナレ」を作ったのか。
それは涙、涙の物語であった。木下がまだ20代のころ、フランスのアルザス地方で、ワーキングビザの形ではなく修行していたころ、食うに困って1週間公園の水ばかり飲んでいたときがあった。後年、成功者になる男はたいがいそういう辛酸を舐めているものだ。もちろん野宿の生活であった。あるときいつものように空腹を抱えて公園の水飲み場に行ってみると、残酷にも水道は凍りついていて一滴の水も出なかった。
「おれはこのまま死ぬのかもしれない」と木下は本能的に直感したという。しかし、そのときだった。遠くのほうから懐かしい日本語のざわめきが聞こえてくるではないか。一瞬、夢ではないかと疑ったが、耳をよく澄ますとそれは関西弁であった。見ると熟年のおばさまたちの観光客だった。10数名が一団となってこちらにやってくる。それは幻覚ではなく現実であった。
「わたしは日本人です。ここ1週間なにも食べておりません。いましがた水を飲もうとしたら、水道が凍ってなにも出てきませんでした。大変不躾なお願いですが、なにか飲むものをいただけないでしょうか」木下は恥を忍んで頭を下げた。
1週間飲まず食わずだったにもかかわらず、やはりイケメンはイケメン、だからであろうか。それにしてもおばさまたちは見ず知らずの若者にとても親切にしてくれた。木下を自分たちの滞在先のホテルまで連れて行き、饗応してくれたのだ。木下は涙を流しながらむさぼるように食べた。その後3日間、親切なおばさまたちのお世話に甘んじた。しかも別れ際には、当時のお金で30万円という現金のカンパまでしてくれたのだ。木下は島地勝彦公認書生のカナイなど比べものにならないほど、あたりかまわず号泣した。
人間は強運を持って生まれてくるヤツと薄幸な運命に生まれてくるヤツの2種類に別れてしまうものだが、木下は間違いなく前者であった。
木下は異郷の寒風吹きすさぶ空の下、自分の命を救ってくれた親切なおばさまたちの連絡先を訊くことを忘れてはいなかった。そして後年ヨーロッパ料理修業から戻ってきて、業界で少しずつ頭角を現すようになったころから、あの親切な大阪のおばさまたちを東京に招待しては、自分が働く店で料理を作り、恩返しの接待を何度もやった。
「キノヤン、御代は取ってくださいね」と金持ちのおばさまたちはいつも抗弁したが、キノヤンは一度も受け取らなかった。
ところがおばさまたちは、毎年1度、東京のキノヤンのフランス料理に舌鼓を打つには、徐々に味が重く感じられるようになっていった。残念ながら寄る年波というものには誰も勝てない。しかも寂しいことに、1人欠け2人欠け、いまでは当初の10数人から半数になってしまった。
「よし、大阪のおばさまたちのためにも、和を取り入れた店をオープンしよう」と木下は「ハナレ」を開店したのである。心底感動した心意気にはやはり心意気の倍返しをしなければ、木下の気持ちが収まらなかったのだろう。そんなわけで大阪の親切なおばさまたちはいまでは1年に1度「ハナレ」を目指してやってくる。そのときは必ず木下オーナーシェフ自らカウンターに立つのだという。
日頃は新井拓徳がこのカウンターを仕切っている。そして今回の資生堂からのゲストは上海で5年間美容部長として駐在していた竹山さとみさんである。
新井:そうだったんですか。「ハナレ」にこんな涙が出るような物語があったなんて、シマジさんにいまお聞ききするまで自分は知りませんでした。
シマジ:まあ大阪の親切なおばさま方には木下は自分たちの息子のように思えたんたんだろうね。
立木:シマジはいままでほとんど強運だけで生きてきたとおれは確信しているが、木下もまさしく悪運が強いやつなんだね。
竹山:木下シェフのお店はいまは恵比寿に移ったそうですね。
新井:そうです。シマジさんが住んでいるほうへ移転したんです。だからシマジさんには木下の新しい店ばかり行くようになり、ここには滅多に来てもらえなくなってしまいました。
竹山:わたしはこの近所に住んでいますので、新しくなった「オー ギャマン ド トキオ」に行ってみたいと女友達を誘ってお店に電話したことがあるんですが、予約でいっぱいでした。移転早々から流行っていたようですね。
新井:ありがとうございます。木下シェフ本人がカウンターに立って料理を作っていますから、やっぱり人気があるんでしょう。
立木:新井、ひがむんじゃない。ここだっておれが料理の写真を撮って紹介すれば、ますます繁盛することは間違いない。
新井:ありがとうございます。今日はよろしくお願いいたします。
シマジ:新井、今日はなにを作ってくれるんだ。竹山さんはランチ抜きでここにいらしたんだよ。
竹山:はい、以前この連載に出た仲間からそう言われましたので。
新井:最初は「ふわふわ蒸し穴子」といきましょうか。このソースにはルバーブというフランス独特の、日本でいえばフキに似た酸っぱい野菜を使っています。そのルバーブを砂糖に漬け込みジャム状にして、梅を叩いたものと和えてあるんです。
立木:うーん、凝っているね。最初に撮影しちゃうからここに出してね。お嬢、ちょっと待っていてくださいね。
竹山:はい、存じあげております。そのお料理はみた目にも美味しそうですね。
立木:はい、お嬢、お待たせ。
竹山:早いですね。
シマジ:立木巨匠は、光より速く、が売り物なんです。
竹山:うわ、美味しいです。この酸味がルバーブなんですね。
新井:そうです。
シマジ:新井、次の料理はなんにする。
新井:メンチカツにいたしましょう。これは、いまは亡き藤巻幸夫さんがある日北野たけしさんといらっしゃったとき、たけしさんの大好物がメンチカツと聞いて、即興で木下シェフが作ってお出ししたものなんです。当時2階にあった「オー ギャマン ド トキオ」で出していたハンバーグにパン粉をつけて油で揚げたものなんです。
シマジ:藤巻がよくここで食べていたメンチカツにはそんな物語があったのか。
新井:はじめてシマジさんがいらっしゃったのもたしか藤巻さんとご一緒でしたよね。
シマジ:そうだったね。あいつはホントにいいヤツだったね。
立木:美味そうなメンチカツだ。じゃあこちらに回してくれる。
新井:承知しました。この次はいよいよシマジスペシャルの「エッグプラント」です。
立木:なになに、ここでもシマジスペシャルがあるのか。
新井:シマジさんが子供の頃お母さんに作ってもらっていたというナスのバター焼きなんですが、これが白いご飯とよく合うんです。
シマジ:人気のほうはどうなんだ。
新井:売れていますよ。凄い人気です。木下シェフなどは恵比寿の「オー ギャマン ド トキオ」が終わってからここにきて、必ずこれを食べて帰って行くくらいです。
立木:はい、お嬢、メンチカツをどうぞ。
竹山:ありがとうございます。
シマジ:竹山さん、今日はランチを抜いてきてちょうどよかったでしょう。
竹山:はい。でもわたしだけいただいていていいんでしょうか。
シマジ:それが今日の竹山さんのお仕事ですから。
新井:「エッグプラント」は意外にバターを沢山使うんです。それにその都度カツブシを削るんですが、これが結構力のいる作業なんです。はい、出来ました。
立木:この匂いがたまらないね。
シマジ:匂いも撮れるカメラがあるといいね。
竹山:このメンチカツは豪華な味がします。
新井:これは北海道の和牛を使っています。うちは牛を一頭買いして、各店で分けているんです。
立木:エッグプラントは撮影終了。はい、どうぞ。
新井:これはご飯と一緒に召し上がってください。
竹山:たしかにご飯と合いますね。うん、美味しい。
シマジ:今日のデザートはなんなの。
新井:アズキとクリームを挟んだミルフィーユアイス添えです。
シマジ:竹山さん、スパイシーハイボールのお代わりはどうですか。
竹山:いただきます。
立木:ここはフレンチ風和食屋だね。
新井:はい、よくそう言われます。