
撮影:立木義浩
<店主前曰>
読者のみなさんは、何度も聞かされているからもうお耳にタコができて、さらにそのタコが子どもを産んでいるかもしれないと思うのだが、日本橋のオーセンティックバー「IAN」(イアン)の横矢豊バーマン(50)の半生を聞いていると、どうしてもまた言いたくなってしまうのだ、「人生は運と縁とセンスである」と。
横矢豊は下町に生まれた。20歳を過ぎるころから、なんとなく向島の花街に足が向いたのは当然であろう。たまたまスナックで知り合った若者が同い年で料亭の息子であった。その息子の母親は当然のことながら、料亭の女将さんであった。その女将さんに可愛がられた横矢は、浅草の老舗オーセンティックバー「ねも」に連れて行かれた。そこではじめて会った老バーマンは、横矢がそれまでに会ったこともないオーラの持ち主であった。生まれついての爺キラーの横矢はその老バーマンに可愛がられ、横矢もまた老バーマンをことのほか尊敬した。「いまぼくがひとかどのバーマンでいられるのもあの方のお蔭です」と横矢は述懐する。
横矢は社会人になり、はじめは会社員生活を送っていたのだが、内装建築業界で羽振りがよかった弟に誘われて、インテリア建築の仕事に転職した。バブルの好景気に乗って仕事は面白いほどあった。稼いだ金は、大好きなウイスキーのコレクションに次々と姿を変えていった。
気がつくと、一般的なサラリーマンが住むマンションを3軒買えるくらいの金額をウイスキーに使っていた。自分の家に置けなくなったボトルを保管するために、1LDKのマンションを3軒も借りた。物流倉庫に大好きなウイスキーを置くのはどうしても可哀相に思ったという。
ウイスキーが売れるほどに溜まっていた。設計はお茶の子さいさいだから、バーを自分で好きなように作ることができる。こうして、つぼみに太陽の光が燦々と当たり見事な花を咲かせるように、オーセンティックバー「イアン」は誕生したのである。
横矢:はじめてお目にかかりましたが、立木先生は格好いいですね。
シマジ:小さな声で言ったほうがいいよ。本人に聞こえると、気を悪くするよ。
横矢:どうしてですか。
シマジ:「人を褒めるときはその人がいないところで言え」と言われるよ。
横矢:姿形も格好いいけど、気位も高い方なんですね。
シマジ:こちらは今月の“資生堂ゲスト”唐川舞奈さんです。
横矢:横矢です。よろしくお願いします。
唐川:唐川です。こちらこそよろしくお願いします。
シマジ:タッチャン、こちらは横矢さんと唐川さんです。
立木:立木です、よろしくね。
横矢唐川:よろしくお願いします。
シマジ:唐川さん、あなたは幸せものですよ。今日は横矢バーマンがいままで大事にしてきた、飛び切り古くて珍しいシングルモルトを飲ませてくれるようですよ。
唐川:まあ、嬉しいです!味がわかるかどうかは自信がありませんが。
シマジ:大丈夫です。美味しい酒に能書きは禁物です。横矢さん、なにからいきますか。
横矢:じつはぜひ、立木先生に撮っていただきたい1本があります。あいにくこれは飲んでいただくことはできないのですが。
シマジ:なになに?これは見たことも聞いたこともないボトルですね。
立木:へえ、菊の御紋が入っているんだ。
横矢:これは1956年<昭和31年>にボトリングされた大変貴重なサントリーのウイスキーです。天皇家に深い関わりのあった九条家が理事長を務めていた孤児院を鳥井家が引き継ぐことになったのです。現理事長はサントリーホールディングの鳥井信吾副会長ですが、当時の昭和天皇皇后両陛下がその孤児院を表敬訪問なされたとき、鳥井信治郎さんが天皇陛下に記念として献上されたウイスキーなのです。ご訪問なさったときの記念に何本か作られたようです。
シマジ:だから菊の御紋が入っているんですね。
横矢:しかも鳥井信治郎さんの縦書きのサインまで入っているんです。
立木:これはますます貴重な1本だね。ヤマグチ、撮影の準備はできたか。
山口:はい。
立木:じゃあ、シマジ、お前があそこまでうやうやしく運んでくれ。転んで割るなよ。
シマジ:そうなったら、床を舐めちゃうもん。
横矢:ぼくがお持ちしましょうか。
シマジ:大丈夫。わたしがお持ちいたします。はい、立木先生。
立木:お前にあらたまって先生なんて言われると、手元が狂いそうだ。割ったらどうする。
シマジ:横矢さん、しかしまたどうしてこのような、やんごとないボトルを手に入れられたんですか。
横矢:蛇の道は蛇でして、あるときアメリカ人のコレクターから2本譲ってもらうことができたんです。
シマジ:えっ、なになに、2本もゲットしたの。そして1本は飲んでしまったんですか。
横矢:さすがのぼくもそこまではできません。2本をただただ崇めて、眺めていましたよ。
シマジ:ではそのもう1本はどうしたんですか。売ったわけではないでしょう。
横矢:鳥井信吾副会長が当店にはじめてお越しになられたのは、わたしのむかしからの大阪のお客さまのご紹介でした。その後数回当店や大阪の本社でお会いしたときの会話のなかで、このボトルのお話になりお譲りする運びとなりました。このボトルのラベルのここをみてください。「このウイスキーはどこの国のウイスキーにも負けない私の自信作です」と書いてあります。
シマジ:そうですか。鳥井信治郎さんがボトリングした菊の御紋のもう1本のボトルは、めでたくお孫さんの鳥井信吾さんのご自宅に戻ったということですね。はてここにある残りの1本はいかなる運命が待っているんでしょうね。
横矢:サントリー記念館に行く運命にあるような気がします。
立木:撮影終了!シマジ、大事に持って行ってくれ。次はなんだ?
シマジ:横矢さん、次はなんにしましょうか。
横矢:それでは、マッカランのMデキャンタにしましょうか。シマジさんがかつて愛飲なさっていたと聞いています。
シマジ:まだあんな古いマッカランのMデキャンタがあるんですか。懐かしい。最後の1本は谷川聖和<島地勝彦公認工事現場監督>にほとんど飲まれてしまったからね。
横矢:そう、谷川が誇らしげにボトルまでシマジ先生のところからいただいてきたと自慢していましたね。ですから今日はシマジさんに、ぜひここで飲んでいただきたかったんです。
シマジ:唐川さんにも1杯作ってもらえますか。
唐川:その前に立木先生に撮影していただくんではないでしょうか。
シマジ:エライ!その通りでした。ではこれはストレートで撮ってもらいますか。
立木:こんな高そうなものを、いくら取材とはいえ、飲んでいいのか。
シマジ:横矢さん、これは1杯いくらなんですか。
横矢:シマジさん、今日はすべてぼくにご馳走させてください。いつも谷川がシマジさんのところに行って、高いシングルモルトをがぶ飲みしているという話じゃないですか。あいつはぼくの子分みたいなものですから、今日はささやかなお返しをしたいんです。
立木:これぞシマジがよく言っている「えこひいきの倍返し」っていうやつか。
シマジ:横矢さん、ありがとうございます。胸が熱くなってきました。これは開高文豪とよく飲んだマッカランMデキャンタですよ。
立木:シマジ、こんなところで泣くんじゃないぞ。
唐川:そんな貴重なものを、わたしもご相伴にあずかっていいんでしょうか。
横矢:どうぞ、どうぞ。
シマジ:‐‐‐‐‐‐‐‐。