
撮影:立木義浩
わたしは浪人と留年を1年ずつ経験したあと、“運と縁とえこひいき”があって、めでたく集英社に就職した。集英社は神田神保町にある。神保町から三省堂のある駿河台、小川町、そして淡路町と歩いて行けば、ものの15、6分で江戸前の名代の天ぷら屋「天兵」があるのだった。初めは誰に連れて行かれたのか、いまでは思い出せない。でも仕事の接待でも個人的なランチでも、足繁く通った大好きな店である。
わたしは先代の時代から通っていたのだが、2代目の井上孝雄さんとは、気が合ってよくえこひいきしてもらっている。いまは3代目の恭兵が2代目とカウンターに並んで修業をしている。
今年も天ぷらの王様「銀宝」にここで巡り会えたのは僥倖であった。
シマジ:大将、こちらが有名な立木義浩先生です。
立木:よろしく。この店のたたずまいがいいねえ。シマジ、気に入った。
井上:こんな立派な先生にお越しいただくのだったら、床屋に行っておくべきでした。井上です。こちらが息子の恭兵です。
恭兵:不肖の息子の恭兵です。
立木:いい息子じゃないの。
シマジ:それからこちらが本日資生堂からのゲストの清水沙耶花さんです。
清水:よろしくお願いします。
立木:こちらこそよろしくね。それにしても背が高いね。
清水:はい、173センチあります。
立木:シマジが見下ろされているのが気持ちがいい。
井上:立木先生、今日は運良く銀宝が5匹も入荷しているんです。わたしたちを撮るより、まず、いまや幻の魚になってしまった銀宝を撮影していただけませんか。
立木:銀宝ってそこの壁に架かっている絵の魚だよね。
井上:そうです。これはもし銀宝が入らなかったときに、みなさまにこれで銀宝の姿をご説明しようかなとわたしが描いた下手な絵ですが。
立木:いやいや、この絵は誰か有名な画家が描いたものだと思っていたよ。
井上:シマジさんには、取材の日に銀宝が入荷して、立木先生に撮影してもらったら最高だね、と何度もプレッシャーをかけられていたんですよ。本当によかった、5匹も入って。
立木:お嬢、清水さんと言ったっけ、もしかするとあなたは強運の星の下に生まれているのかもしれないよ。
井上:シマジさんは今回銀宝が入荷するように、わざわざ上野寛永寺に眠る今東光大僧正の墓参りまでしてきてくれたんですよ。
立木:シマジ、また今さんの法力にお願いしたのか。
シマジ:だって今年は銀宝が不漁で、まだ数匹しか入荷していないと大将が嘆いていましたから、久しぶりに大僧正の法力をお願いしたんですよ。大将、銀宝を見せてくださいよ。
井上:今日の銀宝は由緒正しき江戸前の小柴で捕れたスグレモノです。まだ元気に生きていますよ。立木先生、この育ちのいい、いなせな姿をまず撮影していただけませんか。わたしの絵ではこの迫力がいまいち出ていないんです。
シマジ:最初に裸を撮って、あとで衣を纏った姿を撮影するって、いつもの巨匠と反対のことをやるんですね。
立木:シマジ、余計なことを言うな。ほら銀宝が逃げちゃうじゃないか。
シマジ:大将、こんな姿形がいい銀宝は久しぶりにお目にかかりましたよ。東京湾出身というエリート銀宝は、むかしは4月のはじめ、桜の花が咲くと同時に東京湾に1、2週間湧くように現われたものですが、こんなに遅れて6月の終わりに出てくるなんて驚きですね。
井上:わたしも驚きですよ。築地に行ったら仲買のオヤジさんが「天兵さん、今日は小柴の銀宝が5匹入っているよ。こっそり隠しておいたから、持っていきな」と言われたときには、息子と一緒に涙が出そうになりましたよ。
恭兵:ホントにぼくも驚きましたよ。思わず「シマジさんの強運はただ事ではないね」とオヤジと顔を見合わせたものです。じつは井上家の菩提寺も上野寛永寺にあるんです。
立木:シマジ、元気のいい銀宝の撮影は終了したぞ。次はなんだ?
シマジ:次は、大将に白い衣を着せてもらったあと、カヤの実の油で揚げた銀宝を撮ってください。大将、今日はタッチャンにも食べてもらいたいから、清水さんとわたしの分を合わせて3匹揚げてもらえますか。
井上:5匹のうち2匹は、シマジさんのメルマガを読んだという方からすでに予約が入っているんです。3匹か、うーん、わかりました。これはシマジさんの願いが叶って入荷してきた銀宝ですから、それで行きましょう。
立木:大将、こうしてシマジに長いこと騙されてきたんでしょう。
井上:そう、シマジさんに言われるとその気になっちゃうんです。でもシマジさんには親父の時代から通っていただいていますから、「天兵」にとっていまじゃいちばん古いお客さまですからね。
シマジ:お父さんは兵次さんと言ったよね。
井上:「天兵」をここにはじめて築いた親父の井上兵次は、わたしが言うのもなんですが、ある種の天才でした。親父の話は聞くも涙、語るも涙、なんですけどね。
立木:この銀宝ってやつは、調理が難しそうな顔をした魚だね。
井上:そうなんです。ヌルヌルしているし、やっかいなやつですが、やっかいなやつほど天ぷらにすると美味いんです。
立木:しかしカヤの実を搾った油で揚げる天ぷらって珍しいよね。
井上:これも初代の兵次からの伝統なんです。
シマジ:恭兵君はおじいさんの兵の字をもらったんだね。
井上:恭兵がまだ小さい頃の話ですが、親父は恭兵をホントに可愛がっていましたよ。では立木先生、銀宝が揚がりました。銀宝の晴れ姿を撮ってあげてください。
立木:あの獰猛な顔をした銀宝が、こんな上品にお化粧してもらって、美しい! タカギ、そっちからライトを当ててくれ。
タカギ:こうでしょうか。
立木:そうそう。
清水:見るからに美味しそうですね。
シマジ:清水さんは銀宝の天ぷらは初めてですか。
清水:はい、初めてです。ですから興奮しています。じつはシマジさん、わたしはいま資生堂で広報PRをしていまして、集英社さまの担当なんです。こうしてシマジさんにお会いするのもなにかのご縁ですね。
シマジ:いま出版業界は大変な時代に突入していますから、集英社の応援をよろしくお願いしますね。でも、それじゃあ集英社の編集者とここ「天兵」に来たことがあるんじゃない?
清水:いえいえ、今日が初めてです。
シマジ:「天兵」は昭和15年にここで開業した歴史のある名店です。いかにもここは家族経営で、大将と息子ともう一人美人の女将さんがいるんです。今日は立木先生が来ているので恥ずかしがって出てこないみたいですが、そのうち出てくるでしょう。
立木:なになに、シマジ、美人の女将がいるんだって? 銀宝は撮影終了! 今度は女将を撮ろうか。
シマジ:女将はまさかタッチャンが来るとは思っていなかったらしく、化粧もなにもしていないからと、隠れてしまったんですよ。
立木:銀宝みたいな幻の女将さんだね。シマジ、ますます撮りたい。なんとかしろ。
シマジ:その前にタッチャン、ひと呼吸入れましょう。清水さん、幻の銀宝をまず召し上がってください。タレに大根おろしを入れて、どうぞ。
立木:これは美味いね。久々の銀宝だ。
清水:いただきます。うーん、これは生まれてはじめての美味しさです。
井上:これも親父に教わった通りにやっている味なんです。銀宝は煮ても焼いても美味しくありませんが、天ぷらにすると王様になる珍しい魚なんですよ。親父の兵次が夜汽車に乗って佐賀の有田から一人で勇気を出して上京しなかったら、いまの「天兵」もわたしも恭兵も存在していなかったでしょう。
シマジ:では今度はメゴチを揚げながら、じっくり親父さんの「井上兵次一代記」を聞かせてください。どこの家にも歴史があり物語があるんです。
立木:シマジ、女将さんは?
シマジ:二階に隠れてしまったようですね。タッチャンがいい男過ぎるからだよ。
立木:シマジ、そんなバカを言っていると天ぷらにしちゃうぞ。
井上:立木先生、シマジさんは毒があり過ぎて喰えないんじゃないでしょうか。
清水:うっふふふ。