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第3回 元麻布 「ミ・カフェート」代表 川島良彰氏 第2章 燃える情熱が運と縁をたぐり寄せた。

<店主前曰>

川島良彰は強運な星の下に生まれたようだ。まず静岡聖光学院の高校1年生のとき、父親の知り合いの品川にある名刹東海寺の大嶽住職の下で修行をさせられた。そこには6人の大学生も寄宿していた。夏休みの間、川島は大学生と寝食を共にした。ある日、大学生たちに勧められてしたたか酒を飲んで酔っぱらい倒れてしまった。すると大嶽住職に叩き起こされて怒鳴られた。
「酒を飲むことはあえて許す。しかし、酔っぱらうことは許さん」日頃穏やかな住職に凄い剣幕で怒られた。その大切な意味を、後年、川島は深く理解するのである。エルサルバドルの大学に留学が決まったとき住職に報告に行った。すると住職は川島を穏やかに諭した。
「初志貫徹、行きたいなら行ってきなさい。そのかわり中途半端で帰ってこないことだね」
 川島は死ぬような危険に何度も晒されたが、歯を食いしばって耐えられたのは、この住職の言葉が胸深く刻まれていたせいかもしれない。

シマジ ホセの人生を振り返ってみると、初志貫徹という言葉に尽きるんじゃないの。

川島 その通りですね。死に損なったことは何度もありますからね。エルサルバドルが内戦状態になり、凄いスピードで走ってきた車からゲリラがマシンガンで撃ちまくってきたとき、道端で5,6人の警官たちと一緒に伏せていたんです。気がついて起き上がったら、生きていたのはぼくだけでした。

シマジ だからホセは精悍な顔をしているんだ。いまの日本にいたら、なかなかそんな体験は無理だろう。

川島 留学のお世話になったエルサルバドル駐日大使のワルテール・ベネケさんもあの動乱で殺されました。こんな悲しいことがあっていいのか、と「誰がやったんだ」と怒りに燃えながら、お通夜の会場に着くと、ベネケさんの遺体が運ばれてきたんです。いつもと変わらない穏やかな顔をしていました。そのときベネケさんのお母さんに抱きしめられて、いわれたことが忘れられません。
「一族の全員にも伝えました。だから、あなたにも伝えます。あの子を誰が殺したのか、なぜ殺されたのかを絶対追及してはいけません。口に出してもいけません。これ以上、わたしの周りで誰かが犠牲者になることは耐え難いことですからね」

立木 辛い話だね。コーヒーへの夢の扉を開けてくれた恩人の大使の死はホセにとってきつかったろうね。

川島 さらに追い打ちをかけるように、悲しい事件が起こったんです。エルサルバドルにはじめて行ったときはベネケさんの妹さんの家にお世話になったのですが、2軒目のホストファミリー家の長男でぼくより2歳年上の兄貴分だったマウリシオ・アキーノが夜中に自宅に押し入った何者かに誘拐され、そのまま彼は行方不明となりいまだ生死がわからないのです。

シマジ よくそんな不穏な状況下で帰国しなかったね。

川島 そのころ大学はとっくにやめてエルサルバドル国立コーヒー研究所で勉強していたんですよ。そこに入るのは大学に入るより難しかった。ここの研究所はブラジル、コロンビアの研究所と並ぶ世界屈指の研究機関で、コーヒーの専門家や研究者が先端的な研究をするところだと知ったのは、ずっと後のことで、まずぼくはそこの研究所の所長にじかあたりしたんです。「ぼくは日本のコーヒー屋の生まれで、コーヒーの勉強をすることを切望しています。小学校のころから持ち続けてきたその思いを実現するためにエルサルバドルにやってきました。だから、この研究所で勉強させてください」というスペイン語を丸暗記して、所長のくるのを待ち続けたんです。くる日もくる日も座り込みを続けるぼくをついにメイスン所長は根負けして所長室に入れてくれました。所長は厳しい表情でぼくにいいました。「話を聞いてあげるから話してみなさい」ぼくが思いの丈を貧しいスペイン語で訥々と話したら、所長が電話で誰かを呼んだんです。
数分後、口ひげをはやしたジーンズにワイシャツ姿の男が入ってきました。これがぼくにとって終生のコーヒーの師、新進気鋭の若手研究者のウンベルト・アギレラ課長との出会いでした。

原田 ホセの岩をも砕く不屈の精神に感動しました。ぼくなどまだまだ未熟です。ぼくも勇気が湧いてきました。この体験は教科書に載せるべきです。

シマジ やっぱりホセは強運の男だね。燃えるような情熱と行動力には脱帽だ。

立木 世界一のコーヒーハンターになるにはそれくらいのことをしなくちゃいけないんだね。

川島 「2年間のカリキュラムを作り、この若い日本人にコーヒー栽培のすべてを教えてあげなさい。今日からアギレナ課長、君はこの若者の指導教官だから、よろしく頼む」というようなことを所長はいったんです。正確にはわかりませんでしたが、そんなことでしょう。しかも授業料はタダでした。前例もなかったんでしょう。ただし学生ビザが必要だったので大学は休学という形を取りました。

シマジ 強運がまた強運を呼ぶんだね。

川島 でもそれが親にばれて、送金はストップしてしまいました。

シマジ 一難去ってまた一難か。

川島 しかし職員食堂も充実していて、主食のトウモロコシの粉をこねて作る薄焼きパン、トルティーヤにバターやチーズをのせてかぶりつくと、美味しかったですね。師匠のアギレラ先生は研究熱心で厳しい方でした。でもよく自宅に招いていただき、家族の一員として歓待してくれました。

立木 人間は大好きなことだと苦労に感じないんだろうな。

シマジ おれはホセに教わるまでコーヒーはクリやドングリみたいなものだと思っていたんだが、コーヒーってフルーツなんだってねえ。

原田 そうですか。ぼくも知りませんでした。

川島 立派な果実です。赤い実がなるんです。コーヒーはそのなかの種を使うのです。

シマジ たしかにネスプレッソのPR用DVDを観たら、赤い実がなっていた。しかしその種とは知らなかった。

川島 ぼくはアギレラ先生の指示に従い、研究所のなかにある病害課、虫害課、遺伝子課、化学課、農学課、土壌課に数ヶ月単位で通い勉強しました。アギレラ先生は突然抜き打ちで試験をしばしば出す人で、出来ないと何度もやり直させられましたね。でも興奮と感動の毎日でした。研究所には研究者ばかりではなく技術労働者も多く働いていましたから、彼らにも習いました。70歳に近いドン・シロの接ぎ木の技術は神業でした。

シマジ 好きこそものの上手なれとはよくいったものだね。子供のころからの夢が天職になったんだものね。いよいよ日本人最初のコーヒーハンターの誕生だね。

立木 シマジとおれがガールハンターをしているうちに、ホセはコーヒーハンターになっていたとは偉いね。なかなか出来ないことだよ。

川島 そのころはまだまだ未熟でした。少しわかってきたかなと思っていたところにエルサルバドルの内戦が勃発したんです。

シマジ そうか。国立コーヒー研究所に入れたのももしかすると、ベネケ大使がホセの保証人であったことも重要だったかもしれないね。

川島 そうだと思います。あそこの国は階級社会ですから、ベネケ大使とメイスン所長は繋がっていたかもしれません。そうだ。グアテマラのマグニチュード7.5の大地震のことは日本でもご存じでしたでしょう。1976年2月4日、たまたまぼくはエルサルバドルの隣国グアテマラにいたんです。19歳でした。ぼくの滞在していた部屋にはトイレがなかったので、深夜にパテオ<中庭>を通ってトイレのある母屋に行き、再び寝ようとしたときでした。グゥウウウウウオ!という轟音が足元から聞こえたんです。時刻は午前3時1分。ぼくはベッドから身体ごと投げ出された。轟音とともに天地がひっくり返ったような衝撃を感じ、再び身体が投げ出され壁に激突しました。「ここで死んでしまうのか」と一瞬、頭にそんな思いがよぎりました。床を這うようにしてドアのほうに移動して、何とか転がるようにパテオに飛び出せたその瞬間、グゥウウウウオ!と轟音が起こり目の前で母屋が崩れ落ちたんです。夢をみているのかとそのとき思いました。

原田 ホセはよく脱出出来ましたね。

シマジ 本当にホセは強運の男だね。

資生堂ビューティートップスペシャリスト 原田 忠

ニューヨーク・パリにおけるファッションショーではヘアメークチーフとして活躍するほか、作品の発表にも注力している。
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今回登場したお店

ミ カフェート 元麻布本店
東京都港区元麻布3-1-35 c-MA3 1F
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