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第10回 東麻布 月下 小澤伸光氏 第4章 グランメゾンには歴史があり物語がある。

撮影:立木義浩

<店主前曰>

資生堂デパート部の鈴木さやかさんが昨年の11月にめでたくご結婚されて田中さやかさんになった。そんな彼女が新婚ホヤホヤの幸せそうな顔で話してくれた。
「結婚して変わったことは、悲しいことは半分に、嬉しいことは2倍に感じられるようになったことです。夫は明るくてプラス思考の人なので、たとえ仕事のことで凹んで帰宅したとしても夫の顔を見ると元気になれるんです。独り暮らしをしていたころはいつも、愉しい気持ちの反面どこか不安でもありましたが、いまでは夫と毎日一緒に生活している幸せを感じています。
とはいえ、それぞれの趣味もありますので、おたがい自分の時間を大切にしながら二人の生活の調和も取れているといった充実感があるんです。
以前シマジさんが夫婦の趣味は別々のほうがいいと仰っていたことを印象的に覚えているんですが、その理由はどういったことでしょうか。あらためてお聞かせいただけますか」
「では乗り移り人生相談風にお答えいたしましょうか。一般的にいって夫婦で同じ趣味を持つことをわたしはお薦めしません。ゴルフ発祥の地では男たちが奥さんと一時離れるために発明した遊びがゴルフだといわれています。それをわざわざ奥さんと一緒にやりに行く日本の男性はいかがなものかとわたしには思えますね。夫婦でプレイしながら喧嘩している光景をたまに見かけますが、さもありなんと納得します。ゴルフに限らず夫婦は別々の趣味を持ったほうが長い目でみて賢明でしょう。わたしの場合、愚妻はゴルフもしませんし、シングルモルトも飲みません。葉巻も吸いません。だから48年間も結婚生活が続いているのでしょう」
 いやはや、相棒のミツハシがいないとやはり調子がいまひとつである。

シマジ:鈴木さんは、この間まで小澤さんが働いていたアピシウスは行ったことがありますか。

鈴木:以前NHKで放映されたシマジさんの「全身編集長」で店内の様子を拝見しましたが、実際に行ったことはありません。あのとき小澤さんも映っていらっしゃいましたね。

シマジ:小澤さんに無理をいってNHKの撮影隊を大勢入れさせてもらったんです。

小澤:あのときは開高先生がいないのが不思議に思えたくらい、一瞬タイムスリップした感じがしましたね。

シマジ:わたしも、この場にオーナーの森さんもいてくれたらなあ、とふと思いました。

立木:往年の開高先生の独特なハイバリトンの声が聞こえるようだったね。

シマジ:あのころから少し内装が変わったけれど、バーも懐かしかったです。開高先生はいつも約束の時刻より早くいらして、あそこで小澤さんの作るマティーニをニコニコしながら美味そうに飲んでいましたね。そうだ、鈴木さん、今年の結婚記念日にはアピシウスにハズバンドと行かれたらいいと思いますよ。記念日を祝うところとしては最高です。そのときは小澤さんに一声かけていただければ、きっとサービスがちがうことでしょう。

鈴木:ありがとうございます。今夜さっそく夫と相談してみます。

小澤:行くときはわたしにひとこと仰ってください。サービスさせましょう。

シマジ:あそこの従業員は全員、小澤さんと気心の知れた仲間だったんですものね。

小澤:31年間あそこで働いて、最後はみんなに送別会をしてもらいましたが、嬉しかったです。そうだ、まだわたしがアピシウスにいたとき、シマジさんがロマネコンティを飲みにきてくれましたね。

立木:おれに黙ってそんな贅沢をしていたのか。

シマジ:いやいや、「全身編集長」を見た先輩の元ビッグ・トゥモロー編集長の西村眞さんがアピシウスの常連で、「シマジさん、あの番組を見たらロマネコンティを一緒に飲みたくなった」と豪気に誘ってくれたんですよ。小澤さんのサーヴで久しぶりにロマネコンティを飲みましたが美味かったですね。あれはたしか1992年ものでしたよね。

小澤:はい、そうです。わたしもお相伴にあずかりましたが、いい出来でした。

立木:そうか、シマジがまたアカの他人の七光りで贅沢をしたという話か。

小澤:シマジさんは羨ましいくらいいい先輩に恵まれていらっしゃいますね。

シマジ:みなさまにこころから感謝しております。

鈴木:アピシウスで絶対食べるべきものはなんでしょうか。

シマジ:おお、鈴木さん、アピシウスに行く気になりましたか。それはなんといっても青海亀のスープでしょう。

鈴木:小澤さん、そうですか?

小澤:そうです。青海亀のスープを出す店はアピシウスだけです。昔から人気No.1のスープです。

鈴木:スッポンとはちがうんですか。

シマジ:それは月とスッポンくらいちがいますね。

立木:うまい!座布団1枚!

小澤:青海亀はワシントン条約で獲ってはいけない生き物なんですが、小笠原は昔から食べる習慣があったのと、現在でも卵を孵化して放流している関係で、年に130匹前後の捕獲が許されているんです。

シマジ:あれは小笠原で獲れるんですよね。

小澤:そうです。だから小笠原では民宿で海亀料理を出すところがあるんです。

シマジ:わかった。小澤さんが60歳を過ぎて、しかもなにも手入れをしたことがないのに肌チェックでCの栄冠に輝いたのは、こっそり青海亀のスープを飲んでいたからではないですか。

小澤:アッハハハ、そんなことはありません。あれは貴重なアピシウスの売り物ですから。たしかに肌にはいいと思います。でもあの青海亀スープを仕込むのは大変で、2,3日キッチンに入れないくらい臭うんですよ。

シマジ:そうですか。でも完成された青海亀スープにはそんな嫌な臭いはまったく感じませんけどね。

鈴木:ほかにはなにを注文したらいいんですか。

シマジ:季節によりますけど、田中夫妻が結婚記念日にアピシウスに行くとしたら11月ですね、それならエゾジカをお勧めします。

鈴木:そうですか?小澤さん。

小澤:開高先生もアピシウスのエゾジカには感激していましたね。

立木:シマジの大好物のヒグマはありますか。

小澤:ヒグマはありません。

シマジ:ヒグマなら日赤通りにあるコントワール・ミサゴだね。タッチャン、いつでもお連れしますよ。

立木:お前に紹介してもらって別の人間と行きたいね。

鈴木:アピシウスってどういう意味なんですか。

小澤:それは鋭いご質問です。アピシウスを開店するとき、店名は初めはアピキウスだったのです。

立木:それは古代ローマ時代の美食研究家、マルクス・ガビウス・アピキウスから取ったんですか。

小澤:さすが立木先生です。そうです、そのアピキウスだったんですが、フランス料理なのだからフランス風に発音したほうがということと、日本語にした響きが万事休すに感じると森社長が懸念してアピキウスをアピシウスに変えたというのが事の真相です。もうそんなことを知っている人も少なくなりました。裏の倉庫にはいまでもアピキウスと表示してあります。

シマジ:なるほどね。グランメゾンには歴史があり物語があるんですね。店の格が似通っているロオジエとは人的交流もあると伺いましたが、従業員の数もロオジエと同じくらいですか。

小澤:そうですね。たしかロオジエは38名でアピシウスが35名でしたか。

シマジ:ほぼ一緒ですか。それにしても、老舗のグランメゾンにはお客さんの数と同じくらい大勢のスタッフがいて、それぞれに質の高い仕事をしているんですね。ところで小澤さん、何歳までここのカウンターに立つおつもりですか。

小澤:そうですね。68歳のわたしより年長のバーマンは日本全国にいらっしゃいますが、最長老はたしか札幌のバーやまざきの山崎さんでしょう。90歳はとっくに過ぎていらっしゃいます。

シマジ:小澤さんも90歳まではやってくださいよ。

小澤:シマジさんは。

シマジ:大西社長に85歳まで頑張ってくださいねといわれていますが、あと12年頑張れますかね。

小澤:シマジさんならいけるでしょう。

立木:勘弁してくれ。おれはそこまでお前に付き合っていられないよ。

シマジ:タッチャン、そんな寂しいことはいわないで付き合ってくださいよ。

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