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第8回明治神宮前 PIZZA KEVELOS 小原直氏 第4章 天才ピッツァ職人の“菩薩”。

撮影:立木義浩

<店主前曰>

シェフ小原直の奥さんは女性としては珍しいスペイン料理の歴としたシェフである。しかも下の名前がユニークで優雅である。仮名で「あきしの」と書くという。奈良県出身だというから、菩薩の名前にちなんでつけられたのだろうか。いま「あきしの」は子供が生まれたばかりで料理人としては休業中だが、たまに「ケベロス」にやってきては厨房に目を光らせている。「ケベロス」のピッツァ以外の献立はすべて「あきしの」の作品といっていいようだ。
2人は日本橋のスペイン料理店で同僚として知り合った。小原には海外の料理店での修行経験はないが、「あきしの」は本場スペインで修行を積んでいる。結婚した当時、「あきしの」がスープを作り、小原に「この材料がなにか言ってみて?」と問うた。そのとき小原は材料の一つ、ニンジンが言えたのみであった。現在小原が天才料理人でいられるのは「あきしの」の内助の功があってのことである。「あきしの」はまさに小原直にとっての“菩薩”なのである。

シマジ:さきほど食べたポルチーニと日本のキノコのピッツァは美味かったですね。今西さん、わたしもお手伝いしますから、もう一枚どうでしょうか。

今西:シマジさんが手伝ってくださるなら挑戦してもいいですよ。あのポルチーニの香りが後を引きますよね。

シマジ:そうこなくちゃ。小原さん、では季節限定ピッツァ「ポルチーニと日本の4種類のキノコ」を焼いてください。今西さん、これは季節限定ですから貴重ですよ。

今西:そう言われるとますます食欲が湧いてきました。

立木:もう写真は撮らないから、お嬢、熱いうちにすぐ食べられるよ。

小原:それでは気を入れて焼きましょう。

シマジ:3分待ってください。

今西:はい、待ちます。

小原:はい、どうぞ。

シマジ:今西さん、熱いですから注意してください。ピッツァはトッピングと一緒に生地をクルクル巻いて手で持ってほおばる食べ方のほうがわたしは好きですが、それには熱すぎますからフォークとナイフで切って食べたほうがいいかもね。

今西:外国の方は器用にナイフとフォークで召し上がっていらっしゃいますね。

シマジ:小原さん、どちらが正式なんですか。

小原:手で食べようと、フォークとナイフで食べようと、わたしのピッツァの味は変わりません。お好きな食べ方でどうぞ。

立木:フランスだって、イタリアのメディチ家のお嬢が嫁ぐまでは手で食事していたというじゃないの。

シマジ:たしかに、寿司を指でつまんで食べると、お箸で食べるより指の感覚でなにかを感じるような気がしますね。

今西:やっぱりこのポルチーニの香りが堪りませんね。美味しいです。

シマジ:これは乾燥したポルチーニを使っているんでしょう。舞茸をはじめ日本のいろんなキノコは生でしょうけど。

小原:その通りです。その方が香りが立つんです。値段も手頃ですし。

シマジ:キノコの命は香りだものね。

立木:シマジ、この若者たちにもう少し坪内寿夫さんの偉大さを話してあげたほうがいいんじゃないの。いまは小粒の人間しかいなくなってしまったから、ああいう怪物の話はためになると思うよ。

今西:わたしの故郷の大人物のお話は、是非お聞きしたいですね。

立木:お嬢だって坪内さんのことは知らなかったんだからね。

シマジ:坪内さんのことならお任せください。むしろ小原さんと今西さんから質問してくれたら話しやすいですね。

小原:では早速お訊きしますが、坪内さんはその当時どのくらい有名だったんですか。

シマジ:鋭い質問です。お答えしましょう。当時の日本経済新聞が行った「石油ショック後10年、日本を支えた経営者」のアンケート調査によれば、ランキングNo.1が小林宏治日本電気会長、2番目が豊田英二トヨタ自動車会長、3番目が稲盛和夫京セラ社長、4番目が土光敏夫東芝相談役、5番目が松下幸之助松下電器産業相談役、6番目に坪内寿夫佐世保重工社長と堂々6位に入っているくらいです。

今西:錚々たる財界人のなかに坪内さんが入っていらしたのですか。

シマジ:そうですよ。時の人になった坪内さんには、全国から講演の依頼が殺到したんです。映画館や来島ドックを成功に導いた経営手腕、そして佐世保重工社長にまで登りつめた半生を語るその講演は、聴衆を感動させ、興奮した彼らが壇上に駆け上がって坪内さんの体を触りまくったものですよ。

今西:どうしてですか。

シマジ:坪内さんの体に触るとお金持ちになるとみんなが思ったんでしょう。また経営再建の神さまの著書、いわゆる「坪内本」が当時飛ぶように売れていましたね。凄いのは、講演料をそこの主催者にポンとくれてやっていたことですね。まあ坪内さんにとっては寄付みたいなものだったんでしょうが。

今西:じっさい佐世保重工を黒字に転じさせたのは何年くらいかかったんですか。

シマジ:いい質問です。佐世保に挑んだ坪内さんは延べ約600時間に及んだ労使闘争をやっと収束させて、昭和56年に、4年ぶりに43億の黒字に転じたとご本人が仰っていましたね。そして翌年には経常利益が過去最高の169億円を打ち立てた。すべての債務を完済し見事に再建を実現させたのです。

小原:なるほど、その功績が買われて日本を支えた経営者の6位に選ばれたんですね。

立木:そんな飛ぶ鳥も落とす勢いの坪内さんにも、やがて激しい時代の波が押し寄せてきたんだ。

シマジ:そうですね。満月はいつまでも満月ではなく、少しずつ欠けていくんですよ。

今西:それはどうしてでしょうか。同郷の者として気になります。

シマジ:最大の要因はプラザ合意による急激な円高不況の直撃をもろに受けたことでしょう。拡大に拡大を続けてきた坪内さんの経営戦略が破綻しはじめたんです。それでも坪内さんは造船会社「函館どつく」の再建を引き受けたんですよ。そして「函館どつく」の幹部を奥道後ホテルに招聘して熱弁をふるっていた最中に、突然壇上で崩れるように倒れたんです。ちょうど71歳のときでした。主治医の尾崎医博が経営する南松山病院に救急車で運ばれて一命は取り留めたんですが、「坪内寿夫重体」のニュースが全国に流れたんです。そのときは元気を取り戻しましたが、77歳のとき、今度は肺がんの手術を受けた。そのとき坪内さんは「あの世まで借金を持って行かにゃならんなんて、死んでも死にきれんのう」と私財のすべてを擲って、すべての経営から身を引こうと決断したんですよ。3200億円という個人保証分と、四国にある24軒の映画館をはじめ個人資産を次々に処分して弁済したそうです。奥道後ホテルと奥道後ゴルフ倶楽部は借金付きながら手元に置くことが出来たんです。しかしそんな大病をされても体重は100キロ以上はあったでしょう。わたしは晩年の坪内さんによく奥道後ホテルに呼ばれ豪勢な宴を共にしました。80歳を過ぎた坪内さんは「翁」そのものでしたね。

立木:どうして坪内さんはシマジを猫可愛がりしたんだろうね。

シマジ:想像ですが、坪内さんには子供がいらっしゃらなかったのであんなに気前がよかったんではないでしょうか。半年もご無沙汰していると坪内さんから航空券が4枚送られてきたものです。

立木:まさにアゴアシつきだね。

シマジ:いろんな方をお連れしましたね。経済学者の中谷巌さんや日下公人さん、それから南伸坊さんや古館伊知郎さんなどをお誘いして坪内さんに会ってもらいました。そうそう青木功プロにも。そしてタッチャンにもね。

小原:いいお話ですね。

シマジ:わたしの人生にとって掛け替えのない大人物でしたね。ああいう方はもう出てこないでしょうね。そろそろ坪内さんのお墓参りに行こうかといま考えています。

立木:そのときはおれも誘ってくれよ。

シマジ:もちろんです。

今西:あっ!わたしとしたことが!

シマジ:どうしました?もう1枚なにか焼いてもらいますか。

今西:小原さんのお肌チェックを忘れていました。ピッツァが美味しすぎて失念してしまったようです。ごめんなさい。

立木:お嬢、別にいまからだって遅くはないよ。

今西:すみません、小原さん、ちょっとこちらへお越しください。

小原:はい、はい。

今西:まずは基本データを入力しますので、何年生まれかおしえていただけますか。

小原:1978年です。

立木:毎日こんな熱いお釜を抱いているんだから彼は血行がいいと思うね。

シマジ:わたしもそう思います。

今西:結果が出ました! Cです!おめでとうございます。

シマジ:やっぱりタッチャンの予言通りでしたね。これからSHISEIDO MENを使っていけばBも夢ではないですよ。

小原:よくわからないけど嬉しいです。ありがとうございました。

新刊情報

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(ペンブックス)
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価格:2,000円(税抜)

今回登場したお店

KEVELOS明治神宮前店
東京都渋谷区神宮前6-12-4 ヒダノビル 1F
Tel:03-6450-5584
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