第9回 赤坂 孔子膳堂 孔健氏・呉漢彪氏 第3章 孔健の一代記。

撮影:立木義浩

<店主前曰>

孔健は中国に生まれた純粋の中国人であるが、25歳のときに留学して以来、すでに30年以上も日本に滞在している。もちろん親日中国人である。
しかし中国で生まれ育った孔健が文化の異なる日本でここまでこられたのは、血の滲むような努力と類い希な情熱、そして強靭な生命力があったからであろう。

シマジ:田中さんはこれまで中国の方と接する機会などはありましたか。

田中:はい。わたしがはじめてペアを組んで一緒に仕事をしたのが中国人の後輩でした。後輩につきっきりで仕事を教えるのもはじめてでしたが、外国出身の方と仕事をするのもはじめてでした。

シマジ:それはいい経験をしましたね。

田中:はい。いろいろと試行錯誤がありながらも、とても愉しい経験でした。そのとき中国という国について彼女に訊くと、幅広く詳しい知識で延々と自分の国について教えてくれました。しかも本当に誇りを持って話しているのが伝わってくるんです。もしもわたしが日本について外国の方に尋ねられた場合、どれほど教えることが出来るのかと思うと、密かに焦ってしまいました。ですからいつか日本の歴史や文化についてじっくり勉強しなくてはならないと思っていたんですが、ついつい日ごろの忙しさにかまけて、いまだに実現出来ていない状態です。

シマジ:田中さんは中国に行かれたことはありますか。

田中:3年ほど前、旅行で上海に行きました。上海の女性は強いと聞いていましたが、たまたま訪れたレストランでお客さま同士のケンカが起きて、殴りかかろうとする女性を彼氏と思われる男性が後ろから羽交い締めで制している現場を目撃したんです。そのとき、上海の女性は本当に強いんだと思いました。

孔健:上海だけでなく、どこの国の女性も強いんではないですか。

立木:シマジもバーのコースターに「女房の目には英雄なし」と書いているじゃないか。どうなの?シマジの意見は。

シマジ:所詮、男性は女性から生まれてきた動物ですから、女性のほうが強いのは当たり前でしょう。製品はメーカーに文句はいえませんからね。ところで孔健は中国のどこで生まれたの?

孔健:わたしは1958年5月6日、中国共産党の幹部がよく行く北京に近い北戴河(ホクタイカ)で一家の長男として生を受けました。母はわたしを生んで母体が危なくなって緊急入院したそうです。たまたま母が北戴河共産党中央病院の医者でしたので、手厚い看護を受けて一命を取り留めたそうです。

シマジ:北戴河というのはどんなところなの?

孔健:日本でいえば、軽井沢みたいなところです。わたしは子供のころから元気がよく、文化大革命が巻き起こったときはまだ10歳でしたが、最年少で参加したくらいです。ですから北戴河では社会活動家として有名人でしたよ。もちろん学校では生徒会長もやっていました。

シマジ:孔健のいまのバイタリティーはそのころから培われてきたものだったのか。

孔健:父は中国初の潜水艦に乗るくらいのエリート軍人だったのですが、たまたま財閥の娘に見初められて彼女が父にラブレターを書いたんです。問題は、それが投函される前に彼女の婚約者に発見されてしまったことです。そのラブレターは父の上官のところに送られて問題になり、結局父は左遷されてしまったのです。つまり、父は自分が読んでもいないラブレターのために一生を棒に振った男だったんです。それから彼は一種の鬱病になってしまいました。いつも機嫌が悪く、わたしは子供のころよく父に殴られましたよ。

シマジ:イケメンだったばっかりに、読みもしないラブレターで出世街道から外されたなんて日本では考えられない事件だね。タッチャンがもしも中国で生まれていたら、いまのような成功はなかったかもね。

立木:余計な心配しないで孔健の物語を聞こうじゃないの。

孔健:時代が時代だったんでしょう。でも後年、その女性が父と母を上海に招待して謝罪したときの3人の写真がありましたね。

シマジ:でももう後の祭りだよね。

立木:シマジが中国で生まれていたら、死刑になっていたんじゃないか。

シマジ:余計なことを心配なさらずに孔健の一代記を聞きましょうよ。

孔健:母の父親は瀋陽で戦前に日本人の家を沢山建てたといっていました。ですから母は日本人の友達も多く、日本語がペラペラでした。血の気の多いわたしは、1966年、8歳にして、北京の人民広場で行われた有名な100万人大集会に参加したんですよ。

田中:孔健さんは子供のときから凄い行動力の人だったんですね。

シマジ:旅費はどうしたの?

孔健:大集会に行く汽車代は人民全員タダだったんですが、宿代と食事代は母親の財布から失敬して行きました。

シマジ:そのころが毛沢東の絶頂期だったんだよね。

孔健:それから小学校4年のとき日本ではビールで有名な青島(チンタオ)に一家で引っ越しました。母親の病院の転勤のためでしたが。

シマジ:やんちゃな孔健のことだから、中学生ともなると手がつけられなかったんじゃないの。

孔健:中学生のころは学生社会活動家のリーダーでした。詩も書いていましたよ。放課後迎えにくるジープで各学校を回って、アジ演説をやっていました。同じ文化革命といっても派閥が出来てその争いが凄かったですね。中学校の校長とケンカになり、北京の共産党本部の、日本でいえば文部省みたいなところにほかの教師と一緒に直訴してその校長をクビにしたこともありましたね。

シマジ:そんな中学生が高校生になると、どうなっていくんだ。

孔健:戦前にドイツ人が開校し、革命後「第九高校」となった大きな高校に入学しました。中高合わせると生徒の数は5000人くらいいましたか。

シマジ:そんな大きな学校でも親分というか、学生のリーダーだったんだろうね。

孔健:そうでしたね。同級生を引き連れて映画館によく行きましたよ。映画館と結託してチケットの歩合をピンハネしていましたから小遣いには不自由しませんでした。映画はほとんど革命礼賛の内容でしたから、正統なる宣伝活動だったんです。

シマジ:孔健はそのころから青島ビールは飲んでいたんだろうね。

孔健:あれはビールというより清涼飲料水みたいなもので、わたしたちは子供のころから飲んでいましたよ。

シマジ:それにしても孔健は子供のころから大人並みの才覚があったんだね。

孔健:そうですね。小学生のころは防空壕を作るために石を砕いて売って小遣いを稼いでいましたよ。

シマジ:どうして防空壕が必要なの?

孔健:そのころ中国はソ連との境界線でよく戦っていたんです。ソ連がいつ攻めてきてもいいように防空壕が必要だったんです。

シマジ:高校を卒業してどうしたの?

孔健:シマジさん、聞けば涙の物語です。まずパイロットになろうと志願したんですが、学科は合格したものの近視だったために落とされてしまいました。たいがいの学生の就職は政府が決めるんですが、わたしは夢破れて港湾局の食堂のコック見習いにされたんです。ほかの同級生は青島に紡績工場が沢山ありましたから、そちらのほうに行ったりしていましたが。港湾食堂のコック見習いは辛い仕事場でした。なにしろ港湾労働者1500人を相手に料理を作るんですから本当に大変でした。

シマジ:なるほど、孔健の料理が手早く上手いのは、そのとき覚えたんだね。何年くらい働いたの?

孔健:1年とちょっとですか。でもわたしは標準語の北京官話が話せましたので、そのあと運良く港湾局のアナウンサーに採用されたんです。

シマジ:それはよかったねえ。

立木:日本に来たのはそのあとなの?

孔健:日本に留学してきたのはわたしが25歳のときですから、まだまだ中国時代の物語が続きます。

もっと読む

新刊情報

Salon de SHIMAJI
バーカウンターは人生の
勉強机である
(ペンブックス)

著: 島地勝彦
出版:阪急コミュニケーションズ
価格:2,000円(税抜)

今回登場したお店

孔子膳堂

東京都港区赤坂3-11-14赤坂ベルゴ 1F
Tel:03-5544-8438
>公式サイトはこちら (外部サイト)

商品カタログオンラインショップお店ナビ
お客様サポート資生堂ウェブサイトトップ

Copyright 2015 Shiseido Co., Ltd. All Rights Reserved.