第1回 西麻布 鮨 来主 荒川真也氏 第4章 来るお客さまが主役、「来主」。

撮影:立木義浩

<店主前曰>

店の名前、いわゆる屋号や家名というのは縁起を担ぐところまで考えてつけるのが難しい。荒川真也は当初そのあたりをあまり深く考えず、自分の名字をひらがなで表した「あらかわ」という店名にしようとした。しかし姓名判断の専門家に相談したところ、「それはやめたほうがいい。川は流されるイメージがあるため店の名前には相応しくない」と言われた。「それではなにか洒落た屋号を」とお願いしたところ、格調ある響きを持った漢字で「来主」と称することとあいなった。来る人(お客さま)が主役、という意味が込められたこの名を、荒川も女将さんもこころから気に入っている。

立木:シマジ、まさかここでもタリスカー10年のスパイシーハイボールを飲んでいるんじゃないだろうな。

シマジ:スパイシーハイボールと鮨との相性は悪くはないと思いますが、鮨には日本酒の冷やがいいですよね。

立木:ここではいつもなにを飲んでいるんだ。

シマジ:会津若松の「写楽」です。

立木:そうか。お前は日本酒も飲めるんだ。

シマジ:日本酒は3種類しか飲んだことがないんです。1つは開高健文豪に教わった奈良の「春鹿」、それに岐阜の「三盛」。これは蕎麦処の「たじま」で蕎麦を食べるときに飲んでいます。

福田:「たじま」は以前このSHISEIDO MENの連載でも取り上げられていましたよね。

シマジ:よくそんな古い情報をご存知ですね。

福田:今回この座談会に出席するにあたり、いままでの先輩たちがなにを話しているか、全部チェックしてきたんです。

シマジ:良いこころがけです。

立木:シマジが飲んでいる酒はどれも辛口だね。

シマジ:そうです。それを冷やで飲んでいます。日本酒を熱燗にすると、わたしにはどうしても甘く感じられるんです。

福田:先ほどからお訊きしようと思っていたのですが、お店の「来主」という名前にはなにか深い意味があるんですか。

荒川:姓名判断の先生が、これがいいだろうとつけてくださったんですが、わたしとしては「主役はお客さま」という思いも込めています。

福田:それは素敵ですね。

立木:むかし来栖三郎という日独伊三国同盟調印のときの駐独大使がいたよな。そうか、字がちがっていたね。

シマジ:あの大使は「来主」ではなく「来栖」でしたよね。この話はタッチャンとわたししか通じない話でしょう。

立木:シマジも銀座でいろんな店に頼まれて、名前をつけていたじゃないの。

シマジ:そんなことがありましたね。「アイリン・アドラー」とか「舞ベロニカ」とか最近では「楪」(ゆずりは)とつけた店がありますね。

立木:おれはもう銀座には飲みに行っていないが、「アイリン・アドラー」も「舞ベロニカ」も元気にやっているんだろうね。

シマジ:そうらしいですよ。わたしも神保町を卒業してから、銀座にはトンとご無沙汰です。でも「楪」なんて大箱ですけど毎晩超満員だそうです。これは友人に頼まれて、墨で下手な字まで書かされました。

荒川:その1つ1つに意味があるんでしょうね。

シマジ:「アイリン・アドラー」というのはシャーロック・ホームズ全集の第5巻「シャーロック・ホームズの冒険」の冒頭に出てくる傑作の「ボヘミアの醜聞」に出てくる女性の名前です。ホームズが生涯「あの女(ひと)」と呼んだ女性の名前を拝借してつけたんです。「舞ベロニカ」はベネチアを体を張ってオスマントルコから守った高級娼婦の名前から取ったんです。「舞」はママが以前そういう名前のクラブで働いていたようで、頭にその名前をつけて欲しいということでそうなったんです。「楪」はよく新年の飾り物に用いられるおめでたい葉で、新しい葉の生長のために古い葉が譲って落ちると言われています。

荒川:シマジさんは屋号をつける才能もおありなんですか。

シマジ:いやいや、それほどの才能はありません。「来主」なんて素敵な名前はとてもつけられません。そうだ。福田さんは3年間九州のほうで働いていたから面白い話は山ほどあるでしょう。1つ聞かせてください。

福田:面白い話ではないですが、失敗談はいくらでもありますよ。

シマジ:失敗談ですか。面白そうではないですか。よく人の不幸は蜜の味というじゃないですか。

福田:担当がおもに九州でしたので出張が非常に多かったのですが、飛行機やバスでの移動中、おっちょこちょいのわたしは落とし物をしてしまうことが何度もありました。いま思いだしても冷や汗ものです。訪店したお店のカウンターに大事な仕事用の手帳を置いたまま帰ってしまい、お店のBCさんに郵送してもらったこともありました。いちばんヒヤッとしたのは、市バスに営業用の携帯を置き忘れてしまったときです。その日は1泊2日の大分出張を終えて、飛行機で大阪に帰るために空港までバスを利用したんですが、スーツのポケットに入れた携帯電話が座席に落ちたことに気がつかず、空港で下車してしまったんです。部長に帰りを報告しようと思って携帯を探すと、どこにもないんです。飛行機の時間もあるためとても焦りましたが、私用携帯でバス会社に連絡を取り、運行中のバスのなかにあることがわかりました。幸いなことに、ちょうどわたしの営業用携帯を乗せたバスがまた空港に戻ってくるというではないですか。いま思ってもこれは不幸中の幸いでした。空港で待っていたら1時間もしないうちに営業用携帯が戻ってきてくれました。そして、おかげさまで予定通り、飛行機に乗れて大阪に帰ることができました。あのときのことは決して忘れません。大分県のバス会社の方のご親切のおかげで本当に助かりました。

シマジ:福田さんもよく忘れ物をするほうなんですか。じつはわたしも子どものときからそうなんです。いま週末伊勢丹新宿店メンズ館の8階でバーマン兼売り子で働いているんですが、いまでもわたしはよく忘れ物をしますよ。

立木:売り子はもっと若いの。シマジの場合は“売り老人”だな。

シマジ:その“売り老人”がSHISEIDO MENの化粧品をよく売っているんですよ。

福田:ありがとうございます。

立木:シマジはなにを忘れるんだ。

シマジ:この十字架を大きく張っているクロコの財布を伊勢丹のトイレに何度も忘れました。ところがいままで必ず戻ってきているんですよ。十字架が守ってくれているんですかね。しかも拾ってくれた方は名前を残してくれていないんです。それがわかればお礼のひとつもしようと思うんですが。

立木:おれだってそんなド派手な財布を拾ったら、名前はあえて残さないよ。これはきっと普通の人ではなく怖い人の持ち物だと思うじゃないか。

シマジ:そうですかね。

立木:当たり前だ。こんな財布を持っている人と関わりたくないと思うに決まっているよ。

シマジ:なるほど。じゃあこの財布は置き忘れても必ず戻ってくる魔法の財布なんだ。ようし、今度そういう触れ込みで売ってみますか。ともかく、おかげさまで1階の駐車場のなかにある遺失物係のおじさんとは親しくなりましたよ。

立木:お前のことだからほかにも沢山忘れ物があるんだろう。

シマジ:サインのときに使う大事な万年筆は何度か。

立木:ほかには?

シマジ:大切な“わたしの秘書”であるスマイソンの手帳ですかね。あれがないと明日の予定もわからなくなってしまうんです。以前うっかり店に置いて帰ってしまったときは、一緒にバーマンをやっているヒロエに電話して、その日のうちに自宅まで持ってきてもらいました。

立木:礼はしたんだろうな。

シマジ:ポートエレンを飲ませてあげましたよ。ヒロエはそれからポートエレンが飲みたくて、スマイソンの手帳を今度いつわたしが置き忘れるか愉しみにしているようです。

荒川:シマジさんのそのクロコの財布は伊勢丹で売っているんですか。

シマジ:はい、サロン・ド・シマジで売っています。

荒川:いくらするんですか。

シマジ:税抜きで24万円です。

立木:でも忘れても必ず戻ってくる財布なら24万円は安いかもね。

もっと読む

新刊情報

Salon de SHIMAJI
バーカウンターは人生の
勉強机である
(ペンブックス)

著: 島地勝彦
出版:阪急コミュニケーションズ
価格:2,000円(税抜)

今回登場したお店

鮨来主

東京都港区西麻布1-8-12
Tel: 03-3478-7525

商品カタログオンラインショップお店ナビ
お客様サポート資生堂ウェブサイトトップ

Copyright 2015 Shiseido Co., Ltd. All Rights Reserved.