私たちの美意識の中に宿る資生堂のDNA

「万物資生」の精神が育む美意識は凛々しく清々しい

もしもこの世に資生堂がなかったら……少なくとも私たちの“美を乞う旅”はもっと迷走していただろう。世界に誇れる日本人の美意識も、ここまで成熟していなかったはず。今しみじみそう思う。つまり資生堂は単に化粧品最大手というだけでは説明がつかない存在。西洋的な香り高い美を伝え、嗜みとしての美のあり方まで教示した伝道師だった。その教えが1つのDNAとなって既に私たちの中に組み込まれているような、とてつもない影響力をそこに感じるのである。
創業150年、資生堂の歩みは紛れもなく現代美容の歴史そのもの! でもさらに驚くべきは、150年間わずかもブレず、色褪せず、生き生きと心に響いてくるその哲学なのだ。「化粧品とはそもそも何か?」その位置づけから資生堂は次元の違う信念を持っていた。単に人を美しくするだけのものではない、むしろ地球そのものと呼応するような特別な力を持つものと捉えてきたのだ。そう、今どうしても知って欲しいのは、資生堂が社名に込めた想い。

1872年 資生堂は文明開化直後の銀座で漢方と西洋薬学を取り入れた調剤薬局として創業

『大地の徳とはなんとすばらしいものだろうか。すべてのものは、ここから生まれる』これは社名の元になった中国の儒教の教え「至哉坤元 万物資生」の意味である。ハッとしたのは、むしろこれは現代人がようやく気づき、SDGsやクリーンビューティで今盛んに訴えているメッセージそのものであること。150年前といえば、奇しくも日本で自動車が生まれ鉄道が敷かれる文明開化のただ中、人々が大地の徳の大切さを忘れて、文明の恩恵に酔いしれていた頃である。その後も時代は前のめりに突き進むわけだが、それを戒めるようなメッセージが込められた「万物資生」に、資生堂は自らの使命を見出し、化粧品の揺るがぬ定義としたのだ。化粧品がいかにテクノロジーに頼るものであっても、美は自然に起因するという信念を貫いてきたのである。
 時代を超えて、資生堂の作るものに何か“凛々しさ”を感じるのもそのせいなのだろう。自然派とは別の意味で「人の美も自然界の一部」と捉えるからこそ生まれる清々しさを感じるのだ。言い換えればそれは、あらゆる美が持っていなければいけない品性、洗練とも訳せるもの。
150年間を紡いだ全てのものに共通するのは、この品性であり洗練なのだ。社名から改めて気付かされるのは、その根底にあるのが自然へのリスペクトだったということ。それが、私たちの美意識の源となっているなら、なんと素晴らしいことだろう。