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第9回 南青山 HELMSDALE 村澤政樹氏 第2章 原点は師匠のシェークの一目惚だった。

撮影:立木義浩

シマジ:村澤はどこの出身なんですか。

村澤:わたしは千葉生まれの横浜育ちなんです。実家は米軍基地のすぐそばで、幼稚園のころから英語を習わされたりしていました。

シマジ:最初の水商売の洗礼は横浜で受けたわけですか。

村澤:はい、伊勢崎町ブルースで有名な伊勢崎町から始まりました。じつはディスコからこの道に入ったんです。でも踊るよりお酒を作るのが好きでしたから、フロアよりカウンター内の仕事が多かったです。

シマジ:いつごろから伊勢崎町のディスコで働き出したんですか。

村澤:大きな声では言えませんが、高校生のころからです。

シマジ:それは早熟なバーマンですね。まさに、栴檀は双葉より芳し、です。ご実家がそういう関係の商売をしていたんですか。

村澤:わたしの父は普通のサラリーマンでした。

シマジ:何人兄弟だったの。

村澤:一人っ子です。でもいまでも不思議に思うことがあるんです。小学生のときにはさすがにバーは思いつかなかったですが、なにか商売をやりたいと夢みていたんです。バーマンになったのは、ディスコで表ではなく内で多く働いたからでしょう。そこにわたしの原点があるような気がします。

シマジ:バーマンになって成功した人の話を訊くと、それぞれに師匠のような存在がありますね。村澤にとって最初の師匠ってどなたですか。

村澤:それは中華街のバー「グレート・ウォール」の陳さんです。わたしはバーマンの陳さんがシェーカーを振っている姿に一目惚れしてこの道に入ったと言っても過言ではありません。まだ高校生のころでしたが、横浜のバーというバーをしらみつぶしにすべて行きました。やっぱり陳さんがバーマンとして最高でしたね。

シマジ:バーのどこが好きだったの。

村澤:それは空気感ですかね。バーによってそれぞれ違うんです。それからバーには飲み屋だけにとどまらない、エンターテインメントの要素といいましょうか、独特の文化があるんですよね。毎晩がライブ、とも言えますし、そんなところが好きなんです。結局、高校は中退する流れになってしまいまして、サントリーマネージメントスクールに通いました。バーとはなにか、バーテンダー道とはなにか、それから金勘定も教わりました。サントリーの福西先生や「バー・ラジオ」の尾崎さんたちが先生でした。そのときは真面目にスクールに通いました。当時のお客さんや先輩たちから、バーのオーナーになるならまず東京へ行け、というアドバイスを受けました。そして東京で会ったのがわたしの人生の師匠、明坂節朗さんです。まさにわたしにとって運命の出会いでした。忘れもしない1986年、わたしがまだ20歳のとき、いまでも繁盛している「ウォッカトニック」の8坪くらいの1号店があった頃です。そこで明坂さんはオーナーバーマンをしていたんです。わたしは明坂さんのオーラにすっかりやられて、この人について行こうと決めました。そして横浜の友達や彼女とも別れ、東京に進出するための第一歩を踏んだわけです。

シマジ:わかりますね。若いときに強烈な方に出会ったときの興奮は永遠ですからね。影響をもろに受けたでしょう。

立木:シマジにとってのシバレン先生かな。

シマジ:いや、立木先生です。

立木:こんなところで見え透いた嘘をつくんじゃない。

村澤:シマジさんの本を読むと、シバレン先生、今東光大僧正、開高健先生との出会いはそれぞれ強烈であっただろうと感じますね。

シマジ:わたしのことはともかく、村澤にとって明坂さんはどんな方だったんですか。

村澤:明坂さんは物静かでどちらかというと内向的な方でしたね。いつも、掃除しろ、酒を勉強しろ、と言いながら、閉店するとわたしをラーメン屋に連れて行くんです。なにしろ明坂さんは屋台のラーメン屋にマイグラスを置いているような人でしたからね。いまでも耳に沁みついている言葉があります。それは本物を見つけろよ、ということです。いいものを見つけろよとも言われました。映画でも本でも絵でも、あるいはバーでも、他の店でも、本物を見つけろと言われました。それがいまどんなに役に立っているか、計り知れません。

シマジ:残念ながらいまのサラリーマン世界では、上司と部下が飲むことはなくなってきたようだね。

村澤:由々しきことですよ。会社の伝統も上司から部下へ伝わっていくものですからね。単に業績ばかり追い求めていると、サラリーマンの世界はおかしくなってしまう気がしますね。

松山:質問してもいいですか。

シマジ:どうぞ、どうぞ。

松山:このお店の名前のヘルムズデールってどういう意味なんですか。

シマジ:それは、村澤から直接聞いたほうがいいでしょう。

村澤:ヘルムズデールは地名です。スコットランドの北の方にあり、海に面していて小高い丘があるんですが、昔はいつデンマークからバイキングが攻めてくるか、その丘に登って見張っていたそうです。

松山:そうなんですか。

村澤:わたしが常々思っているのは、スコットランドはたしかにわたしの第二のふるさとですが、ウイスキーバカにはなりたくないんです。そこでわたしはスコットランドのケルト文化の伝道師になろうと思っています。

シマジ:ケルト文化はスコットランドだけではなく、イタリア、ドイツ、スペインにもありますよね。

村澤:そうです。ですからそちらのほうにも旅しましたよ。

シマジ:村澤がはじめてスコットランドを訪ねたのはいつごろなの。

村澤:「ウォッカトニック」で見習いとして働きだして、まだ半年も経っていなかった頃ですが、突然、師匠の明坂さんから「そうだ、村澤、1カ月間スコットランドを経巡ってこい」と言われたんです。わたしはそのとき20歳でした。餞別までいただいたんです。慌てて国際免許を取得して、はじめての海外旅行に行きました。そのころの「ウォッカトニック」のバックバーには、世界の洋酒がズラリと並んでいました。それを1本1本見ながら講談社の『世界名酒事典』と照らし合わせて勉強していたんです。思いがけずスコッチの世界を実地に見られるチャンスを与えてもらい、とても興奮しましたね。

シマジ:それはいい勉強になったでしょうね。しかも一人旅だったんでしょう。

村澤:そうです。自分一人でB&Bに泊まって、自分で運転して、そのころあった100ヶ所の蒸留所を巡りました。

シマジ:そのころのB&Bの値段は覚えていますか。

村澤:しっかり覚えていますよ。10ポンド前後でしたね。B&Bのブレックファストは結構美味しいんですよ。それにスコットランドの人たちは温かくて、一人旅をしていても凄く親切にしてくれるんです。それはいまも昔も変わりありませんね。

シマジ:でもそのころはまだビジターセンターなんて持っている蒸留所は少なかったでしょう。

村澤:その通りです。しかも閉鎖している蒸留所もかなりありましたね。なかでもいちばん歓迎してくれたのは、シマジさんも親しいグレンファークラス蒸留所でした。いまは日本人に会わない日はありませんが、そのころのスコットランドでは1ヶ月間1人の日本人にも会わなかったですよ。100ヶ所の蒸留所を全部写真に撮りながら旅をしましたから、愉しかったです。スコットランドといえども、誰もがウイスキーを飲むわけではありません。スコットランドの庶民にとっては、ウイスキーは高価なので普段はあまり飲まないんです。クリスマスやバースデーなど特別なときには飲みますが、あとはパブでビターエールを飲んでいます。

松山:また質問してもいいですか。

シマジ:どうぞ、どうぞ。

松山:パブってなんの略なんですか。

シマジ:それはパブリックハウスの略です。スコットランドでは午前11時にオープンして午後11時にクローズします。

村澤:年配の人たちが、麦茶を飲むように安いビターエールを午前中から飲んでいますよ。

新刊情報

神々にえこひいきされた男たち
(講談社+α文庫)

著: 島地勝彦
出版: 講談社
価格:1,058円(税込)

今回登場したお店

HELMSDALE
東京都港区南青山7-13-12 南青山森ビル 2F
Tel:03-3486-4220
>公式サイトはこちら (外部サイト)

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