撮影:立木義浩
<店主前曰>
今年も多くの若者たちが新入社員として新しい生活をスタートさせてから、そろそろ1カ月と少々が経つ。夢見て入った会社で生き甲斐を感じている人もいれば、すでに絶望している人もなかにはいることだろう。でも会社というものは遊び場ではなく、利益を追求していく組織である。社会人になって多少の落胆を経験することは、誰にとっても仕方がないことではないだろうか。そのなかで生きて行くための原動力はなにかと訊かれれば、それは希望だと答えるしかない。そうだ、希望を持って前向きに生きることなのだ。
今東光大僧正がわたしに教えてくれた名言がある。「人生ってなんですか?」というわたしの質問に、大僧正はこう答えてくれた。
「人生は冥途までの暇つぶしである。そう思うことだね。だから、いいかシマジ、精一杯素敵な暇つぶしをしろよ」
これは難しい仏教用語でいうと「遊戯三昧」という言葉になる。遊びのなかにこそ人生の真実があるということだ。この言葉を揮毫した素晴らしい書が、伊勢丹のバー「サロン・ド・シマジ」の壁に架けられている。今大僧正が亡くなられる10カ月ほど前、わたしに書いてくれた直筆である。多くのお客さまがこの書を拝みにサロンを訪れている。
國司あっ、そうそう、お料理があまりに美味しくて、佐藤さんのお肌チェックを忘れるところでした。
シマジそうでした。危なかったですね。
國司佐藤さん、こちらに座ってくださいますか。
佐藤肌チェックですか。こんなことは生まれてはじめてです。
シマジ他のゲストもほとんどがはじめてですよ。
國司では生年月日を西暦でお願いします。
佐藤1980年2月6日です。このデータをこの機器に入れるんですか。
國司そうです。そして機器でお肌を診断して判定を待ちます。---はい、出ました。凄いです。Bと出ました。
佐藤Bはそんなに凄いんですか。
シマジBはいままで稀にしか出ていませんし、いまのところ最高のランクです。ははあ、わかった。佐藤さんは良質なラードを溶かした2つの鍋のそばで毎日仕事をしているので、そこから上がってくる水蒸気を常に浴びている状態になる。それが肌にとって最適の環境なんでしょう。
國司たしかにお肌にはうるおいがいちばん大切です。
佐藤ありがとうございます。トンカツ屋になってよかった。毎日水蒸気で蒸らされているとはまったく気付きませんでしたが。
シマジますます商売に熱が入るんではないですか。とんかつを1枚揚げるごとに肌がよくなると思えば、やり甲斐がありますよね。きっとお父さんも色つやのいい肌をされていたんではないですか。
佐藤うん、そうかもしれませんね。
立木シマジ、もう1つ大事なことを忘れてはいないか。
シマジ?
立木せっかく資生堂から来てもらった國司さんのことをほとんど訊いていないんじゃないの。
シマジあっ、そうでした。國司さん、ごめんなさい。國司さんは化粧品会社が数多あるなかで、どうして資生堂を選んだのですか。
立木陳腐な質問だね。それじゃあまるで資生堂の入社面接じゃないの。まあ、いいか。
國司わたしがはじめて化粧品に興味を持ったのは中学生のころでした。きっかけは、素敵なBC(ビューティーコンサルタント)に出会ったことなんです。その方は会うたびにいつもきれいで、いつもいい香りが漂っていて、いつもお洒落な洋服を着て、素敵なバッグを持っていて、いつしかわたしの憧れになっていました。ですから高校卒業後、わたしもBCになるため、迷わず美容の専門学校に進みました。そして様々な化粧品会社が世の中にはありますが、わたしはもともとスキンケアとメーキャップの両方に興味があったので、就職の際には資生堂を選ばせていただきました。
立木一気に話したね。よっぽどしゃべりたくってうずうずしていたんだね。おじさんがシマジに言わなかったら、欲求不満で帰らせてしまうところだったね。
シマジ資生堂に入社するのは大変だと聞いています。人生においていちばんの幸運は、入りたい会社に入れることですよ。入社して、國司さんは何年経つんですか。
國司今年でちょうど10年です。
シマジ10年同じ会社で働いたら、素敵な思い出も沢山あるでしょう。
國司そうですね。BC時代でいちばん思い出に残っているのは、2014年に行かせていただいたフィリピンへの海外派遣でした。
シマジそれは短期ですか、長期ですか。
國司約1カ月半のことでしたが、異国で仕事をするということは、わたしにとって大きな挑戦でした。もともと海外旅行は好きでしたが、やはり旅行と仕事は違います。
シマジ英語はできたんですか。
國司それがほとんど。しかも通訳なしですから、なんとか身振り手振りで考えや気持ちを伝えました。とにかくいままで培ってきたスキンケアやメーキャップの技術と自分の情熱で、ひとつひとつ丁寧に伝えるしかありませんでした。その海外派遣では、15店舗を回り、沢山のお客さまやあちらのBCと出会いました。終わってみればあっという間でしたが、あのときの経験は自分の成長にも役に立ったと思っています。
シマジそうですか。頑張ってこられたんですね。今度は逆に、仕事の上での失敗談をなにか披露してくださいませんか。
國司では、恥ずかしいですが告白します。以前、フジテレビの「めざましテレビ」という番組のなかで、おもてなし特集というものがありました。そのとき「SHISEIDO OMOTENASHIサウンド」など弊社の対応が取り上げられ、わたしがBC代表として撮影に応ずることになったんです。
立木面白くなってきたぞ。
シマジ生まれてはじめての出演だったのですか。
國司そうです。それまで撮影などされたことがなかったので、現場に着くなりカメラ、照明、音声など大勢のスタッフの方々がいることに驚きました。そしてなにより、普段テレビで観る可愛い女子アナが目の前にいるといった慣れない雰囲気に、一気に緊張がピークに達してしまいました。で、そのまま本番に入ってしまったんです。
シマジ國司さんの緊張している感じがよく伝わってきますね。
立木ますます面白くなってきた。
國司あとから録画でその番組を観ると、緊張のあまりわたしの顔は引きつっているし、セリフは棒読みだし、動作もぎこちないし、より太って見えているし、全国放送だったのにどうしよう!という気持ちでいっぱいになりました。案の定、家族や知人からは笑い者でした。
立木でもそれはかえっていいことなんじゃない。素人さんってそんなもんでしょう。もし堂々とやったらむしろ反感をかったと思うね。
シマジこころ温まる告白でした。正直に生きてきた國司さんの人となりが出ていて、わたしはむしろほのぼのとした印象を受けました。あっ、そうだ。今日は立木事務所の3人にロースとんかつをおみやげに差し上げたいと思っていたんです。佐藤さん、いまからロースとんかつ3枚を揚げてもらえますか。
佐藤シマジさんに前もって言われていましたので、すでにオリに入れて用意しています。
シマジさすがは佐藤さん、感謝です。ヤマグチ、このとんかつは冷めても美味いんだよ。
ヤマグチありがとうございます。
佐藤もう一度レンジで温めてください。
立木あれ、お母さんは?
佐藤どこかへ買い物に行ってしまいましたね。
立木せっかく暖簾をバックに息子さんと一緒に2人で撮ってあげようと思っていたのに残念。まあいいや。今度おれがとんかつを食いにくるときにでも撮ろう。
佐藤すみません。母に伝えておきます。